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 五十槻いつきから人払いを頼まれたので、綜士郎そうしろうは兵舎の中の、人気が少ない場所にある作戦室を選んだ。

 通称・神事兵連隊の人間拡声器こときのえ精一せいいち伍長は盗み聞きに走る可能性があったため、中隊内でも鬼軍曹と名高い後藤軍曹へ預けてきた。今頃地獄の訓練でしごかれていることだろう。いい気味である。

 綜士郎は声が漏れないように部屋中の窓や扉を閉めて、簡易な造りの椅子に腰かけた。ここはあまり使われていない場所で、質素な長机が二台と、書架がいくつかあるだけの部屋だ。机を挟んで向かい側に、五十槻が立っている。


「座ってくれ、少尉」


 いつもなら速やかに指示に従うのに、五十槻は立ち尽くしたままだ。


「少尉?」


 やっぱり様子がおかしい。眉をしかめる綜士郎の、目の前に。


 つい。


……と、少々遠慮がちに手紙のようなものが差し出された。長机の上に置いてあるそれには、端正な筆跡で三文字したためてある。


『除隊願』


 差し出されたものを冷ややかに見て、綜士郎は抑揚のない声で言った。


「少尉、これは?」

「はっ……除隊願、です……」


 なるほど。綜士郎は勝手に納得した。そして除隊願を手に取り広げながら、推測する。

 前々から疑問だったのだ。軍役の下限年齢に達していないはずの彼が、なぜ軍法を歪めてまで任官されたのか。

 この神事兵科には、神實かむざね神依かむよりという二つの階層が存在する。神實は神事兵科創設の折りより優遇されており、軍役を最低三年勤め終えれば自発的な除隊が許される。軍務も危険の少ない後方勤務に終始することが多い。

 綜士郎もよく知るこういった特権の存在は、現在八洲やしま国の世論において、大いに批判されている。

 そもそもなんのために神實が華族になったかというと、禍隠に対する戦力をある程度定期的に輩出することができるからだ。つまり、彼らの存在意義は禍隠と戦うこと。

 だが現状、華族の大半は元々期待された役割を放棄して、軍務に携わるのは遊び半分。こんなことでは軍事費の無駄ではないか、けしからん。そんな意見が世論の大半だ。

 そこでおそらく、まだ幼い五十槻に白羽の矢が立ったのだろう。華族の少年将校が粉骨砕身、禍隠へ立ち向かう。しかも八朔の神籠は雷だ、派手だしよく目立つ。現に昨晩の翠峰楼の事件も、さっそく今日の朝刊の一面になっていた。彼がヒロイックに活躍するたび、国民──とりわけ兵役中の神依──の神實華族への印象は恢復するのだ。要はガス抜き要員。

 だがさすがに、十五の子どもを戦場に置き続けるのに、八朔家が難色を示したのだろう。昨日五十槻が実家に帰った際、そういう話し合いが持たれたのかもしれない。

 綜士郎は除隊願に目を通しながら、つらつらとそんなことを考えていた。除隊理由の項目には、「一身上の都合のため」とよくある定型文が記されている。


(ここは子どもがいていいところじゃない。よかったじゃないか、八朔五十槻)


 綜士郎は元々の持論もあり、このまま除隊願を受け入れてやりたいところだ。

 だが、除隊を受け付けるにあたっては問題がいくつかある。まず、中尉の彼には人事権がない。

 また、任官時の年齢が成人未満の彼に適用できるかは分からないが、たとえ華族といえど、先に述べた通り最低三年は軍務につかねばならないのだ。


「少尉、正規配属になってどれくらい経つ」

「はっ、五ヶ月と十一日です」

「神實華族の最低勤務年数は三年だが、これはどう考える」


 聞いた後で、何を言っているんだ俺は、と綜士郎は内心で後悔する。別に五十槻が辞めることに関しては異論はないし、除隊願も人事権を持つ上官へ回してやるつもりだ。なのに、口から出てきたのは少し意地悪な質問だし、そもそも中尉の綜士郎が聞くことではない。まあ確かに、五十槻は年齢以外には問題がなく、非常によくできた部下だ。彼が成人であったなら、大いに引き留めたに違いない。


「え、ええと……」


 五十槻は俯いたまま答えに窮している。非常に珍しい光景だ。いつもは間髪入れずに返事をするくせに。


「あの、すみません。父の言いつけで、軍を辞めなさいと……」


 俯きながら、五十槻はぼそぼそと言葉を紡ぐ。まるで叱られた子どもが言い訳をしているかのようだった。

 やがて五十槻から言葉が出なくなった。遠く調練の声がガラス戸越しに聞こえてくる以外、室内は無音である。

 なかなか耐え難い沈黙である。かといって、綜士郎はこの雰囲気をどう切り抜けていいものか分からない。とっとと除隊願を受け入れてやればよかったと心の内で悔いるばかりだ。

 口火を切ったのは五十槻である。


「藤堂中尉!」


 突然五十槻は床へ這いつくばった。額を擦り付けるようにして平伏している。急なことに「は?」と若干素が出ている綜士郎に構わず、五十槻は絞り出すような声で続けた。


「僕は今まで、皇国陸軍にも、連隊の朋輩たちにも、そしてあなたにも偽っていたことがあります!」

「なんだって?」

「性別を、偽っておりました。僕は本当は、男ではありません……! 女なのです!」

「は……?」


 ぱさり。綜士郎は目を丸くして、思わず持っていた除隊願を取り落とす。そんな綜士郎の目の前で、五十槻はがばっと身を起こした。

 少年──いや、少女は目を真っ赤にして、今にも泣きそうだ。普段から真顔で過ごしている五十槻のこんな表情を綜士郎は初めて見たし、心底ぎょっとした。

 そして綜士郎の心臓に悪い展開はなおも続く。


「真実を偽り皇国の軍法を欺いた罪科つみとがは重く、とても償いきれないとは存じますが……」


 五十槻はそう言いながら、突然乱暴に軍服の上着のボタンを外し中の白シャツを露わにすると、身に着けていた脇差を鞘から抜いた。そのまま刃を自らの腹に向け──


「かくなる上は、腹を切ってこの命でお詫び申し上げる所存!」

「まっ、待て待て待てぇええ!」


 綜士郎は長机を飛び越えて、五十槻を止めにかかった。いまは正直、男だの女だのはどうでもいい。いや、真っ平な胸を見て「本当に女か?」ぐらいは一瞬思ったが。


「落ち着け少尉! 刃物を置け! コラ、命令を聞かんか!」

「いえ、僕はここで死にます! 死ぬべきなんです! 離してください!」

「く、くそっ……! なんだこの馬鹿力……!」


 脇差の柄を握りしめる五十槻の手は、綜士郎が無理矢理引きはがそうとしてもびくともしない。相当覚悟が決まっているようだ。刃先が腹に食い込まないよう、手首を掴んで引き止めるのが精いっぱいである。

 綜士郎は思案した。こうなったら手段は一つしかない。今の時間、中隊本部は訓練用の神域ひもろぎに囲われているからできるはずだ。

 五十槻の手首を握りしめながら、綜士郎は意識を集中させる。神依の者は信仰心の足りない者も多く、五十槻のように神籠行使の際に祝詞を唱える者は少ない。綜士郎も同様で、自身に宿る神──香瀬高早神カゼタカハヤノカミは絶対に寿がないことにしている。別に祝詞がなくても、神は力を貸してくれるようだ。

 香瀬高早神は風の神である。だがかなりの荒神らしく、扱いが難しい。けれど今回はなんとしてでも制御し、五十槻の周囲の空気を少しの間だけ希薄にする。


「かはッ!」


 急に五十槻が目を白黒させて、脇差を取り落とした。効いた! と綜士郎はすぐさま能力を解いた。床に落ちた脇差をすぐに部屋の隅へ蹴飛ばし、五十槻の肩を思い切り押し倒す。空気の供給が突然再開されたからか、五十槻は時々咳き込みながら、荒い呼吸をし始めた。

 また刃物を取り戻されてもいけない。しばらくこのまま押さえつけて、落ち着くのを待とう。綜士郎は五十槻の上で深いため息を吐いた。気付けば全身汗でぐっしょりだ。

 綜士郎の神籠の力は、風というよりも大気や空気を操る。どちらかというと広域の大気を大雑把に操る方が得意で、今回のように、局所的な空気の操作は本当に難しい。現にいまも繊細な操作を要求され、身心の消耗が激しかった。ひとつ操作を誤れば、五十槻を殺してしまうところだ。

 神籠の能力の人への使用は、本当は勅令で厳重に禁止されている。

 そうでなくても、綜士郎はこの手段だけは取りたくなかった。おそらく今夜の夢見は悪いだろう。


「ちょりーっす」


 甲精一の登場はいつも突然である。カンカン照りの調練場で鬼軍曹にしごき倒され、真っ赤に日焼けした顔でからりと開ける作戦室の引き戸。


「いやぁ暑かったー。中尉ー、酒保でサイダー奢ってくださいよぉ」


 何をどうやったのか、中尉と少尉の密談場所を探り当てた精一である。地獄の調練の腹いせに冷たい飲み物を奢らせたい一心だった。

 作戦室に入るなり、彼が見たものは何か。

 床に仰向けに倒れ、軍服の前をはだけて荒い息の八朔少尉と、汗だくで少尉に馬乗りになっている藤堂中尉。


「あ」


 三人分の視線が交錯した。

 ヒュ~、と精一は高らかに口笛を鳴らす。

 甲精一、皇国陸軍一の問題児。

 数ある彼の通称のひとつが、神事兵連隊の人間拡声器である。


「ねー!! みんなー!! きいてー!!」

「や、やめろー!!」

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