序ー3


 義理とはいえ、母の一大事である。

 本来は禍隠討伐の後始末をしなければならないところであるが、藤堂中尉から一時帰宅の許可を得て、五十槻いつきは皇都内を走る乗合馬車をつかまえると、家従の山沢とともに一路実家を目指していた。

 翠峰楼すいこうろうから八朔ほずみの屋敷まで、馬車で一時間。

 五十槻の実母は、彼を出産した直後に亡くなっている。

 それからしばらく独り身を通していた父が後妻を迎えたのは、数年前のことだった。継母となったのは和緒かずおという名の女性で、大変気立てがよく、血のつながらない五十槻にも優しく接してくれる。

 実母のこともあり、五十槻は心配だった。新しく生まれてくる子どもはもちろんのこと、和緒のことが気にかかる。

 顔を合わせる機会は少ないが、五十槻の中では自慢の母だった。「母上」と呼ぶ決心は、まだつかないけれど。


「坊ちゃん、着きましたよ」


 山沢が御者に降車の旨を伝え、馬が停まる。運賃を払い馬車を降りると、もう八朔ほずみの屋敷の門前である。

 堂々とした門構えの、伝統的な八洲やしま屋敷だ。華族の住まいとして相応しい威容を備えている。

 山沢に先導されて、五十槻は久々に実家の上がりがまちを踏んだ。これまでの人生で、この広い屋敷に帰ってきたことなぞ数えるほどしかない。いつになっても慣れない間取りに戸惑いつつ、五十槻は奥の間へと案内される。


「まあ坊ちゃん」

「お帰りなさいませ、坊ちゃん」


 屋敷の中はさすがに慌ただしかった。廊下を進むなかで、顔見知りの使用人達がばたばたと忙しなく通り過ぎていく。忙しくても五十槻に対する挨拶は欠かさなかったので、都度、五十槻も一言二言返していく。


「五十槻!」

「お帰り五十槻、いつぶりかしら!」


 長い廊下の中でばったり出くわしたのは、二人の姉だ。長女が皐月さつきで、次女が奈月なつきという。二人とも嫁に行ったはずだが、継母のお産を聞きつけて帰ってきたのだろう。姉たちは弟が久闊を叙す暇も与えず、ふたりそろって破顔した。


「生まれたわよ、赤ちゃん!」

「えっ、もう?」

「和緒さんもお元気よ。さ、早いとこお見舞いに行ってあげなさい」


 とん、と背中を押されて、五十槻はさらに屋敷の奥へ進む。山沢はいつの間にかどこかへ行ってしまった。たぶん家令に呼びつけられたのだろう。奥の間に近くなると、段々と赤子の鳴き声が聞こえてくる。


「失礼します。五十槻です」


 奥の間の襖に一声かけて、五十槻はそっと引手を引いた。


「五十槻!」

「五十槻さん」


 お産の後始末をすっかり終えた部屋の中には、父・克樹かつきと継母・和緒がいた。和緒の腕の中には、いかにも頼りなげな声で泣いている赤子がいる。父の顔は涙でぐしゃぐしゃで、対して和緒はお産を終えた直後とは思えないくらい生き生きとした顔色だ。

 五十槻は居住まいを正して正座し、畳の上へ指を置くと、そのまま丁寧に座礼を行った。


「父上、和緒さん。この度の御出産、衷心ちゅうしんよりお慶び申し上げます」

「もう、この子はいつまで他人行儀なのかしら。ねえ克樹さん?」

「あ、ああ」


 からからと朗らかに笑う和緒に、父は涙を拭いながら頷いた。父は前に会ったときより、少し痩せたかもしれない。


「ほら、五十槻さん。抱いてあげて」

「え、ええっ」


 生まれたばかりの赤子を差し出す和緒に、思わず五十槻は畳から顔を上げた。抱かれている赤子は見るからにふにゃふにゃで、少し扱いを間違えればすぐに傷つけてしまいそうだ。


「いけません。僕は先刻、禍隠まがおにを斬ったばかりですし……」

「ふふふ、ならなおさらよ。丈夫な子に育つよう、きっと神様の御加護があるわ。ほら、お兄ちゃんですよ~」

「うわ、あ」


 ほとんど無理矢理押し付けるように腕へ乗せられた赤子は、驚くほど小さくて軽かった。落とさないよう気を着けながら、五十槻はまじまじと新生児の顔を覗く。赤子、という通り、真っ赤だ。白いおくるみの中で手足をわきわき動かして、やっぱりほにゃほにゃ泣いている。


「五十槻」


 じっと真顔で赤子に見入っている五十槻へ、傍らから父が呼びかけた。振り向いた我が子へ、父は一言。


「……男だ」

「え」

「お前の……弟だ」


 父の言葉は重々しい。先程まで流していたのは間違いなく喜びの涙だったのだろうが、今はお通夜もかくやというほどに重苦しい雰囲気を纏っている。


「来なさい五十槻。話がある」




 赤子を和緒に返し、五十槻は父に連れられて書斎に通された。人払いをし、父と息子は二人きりで向かい合う。父の雰囲気は重いままだ。その理由に五十槻は心当たりがある。

 生まれてきたのが、男の赤子だった。ということは。


「すまない、今まで大変な苦労をお前にかけてきた!」


 開口一番、父は額を床へこすりつけるようにして土下座した。「父上、やめてください」と五十槻が肩を起こすと、父はまた泣いている。今度は悔恨の涙のようだ。


「我が家にこれまで男児が生まれないばかりに、女子のお前に性別を偽らせ、男として……それも軍属の神籠こうごとしての人生を歩ませてしまった……」

「…………」


 父の言う通りである。五十槻の本来の性別は──女性。

 確かに特異な生い立ちのおかげで、これまで苦労が多かった。しかし五十槻は父のことを恨んではいないし、自らの境遇をしっかり受け入れているつもりである。


──父上、五十槻は気にしておりませぬ。


 と、五十槻は父を慰めようと口を開きかけた。しかし五十槻が言葉を発する前に、父は涙を拭いつつ、途端に晴れ晴れとした顔となる。


「だがこれより先、お前は性別を偽らずに生きていける。正式な後継ぎが生まれたのだからな!」


 父は五十槻の肩をがっしりと両手で掴むと、希望に満ち溢れた目で言った。


「五十槻。軍にはすぐにでも除隊願いを出しなさい」

「な、なんと?」

「これからお前は女子として生きるのだ!」


 女子として。

 女子として。

 女子として。生きるのだ。


 五十槻の脳裏で、父の言葉がわんわんと反響する。しばらく何を言われたのか分からなかった。


 そう、八朔ほずみ五十槻いつき、十五歳。八洲大皇国陸軍神事兵連隊麾下皇都守護大隊第一中隊所属、階級少尉。

 家庭の事情により、物心つく前から男子として生きてきたが、本当の性別は女性である。職場はもちろんのこと、父以外の家族すら知らない事実だ。


「えっ……」


 五十槻は頭が真っ白になった。

 急にそんなことを、言われても。

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