序ー3
三
義理とはいえ、母の一大事である。
本来は禍隠討伐の後始末をしなければならないところであるが、藤堂中尉から一時帰宅の許可を得て、
五十槻の実母は、彼を出産した直後に亡くなっている。
それからしばらく独り身を通していた父が後妻を迎えたのは、数年前のことだった。継母となったのは
実母のこともあり、五十槻は心配だった。新しく生まれてくる子どもはもちろんのこと、和緒のことが気にかかる。
顔を合わせる機会は少ないが、五十槻の中では自慢の母だった。「母上」と呼ぶ決心は、まだつかないけれど。
「坊ちゃん、着きましたよ」
山沢が御者に降車の旨を伝え、馬が停まる。運賃を払い馬車を降りると、もう
堂々とした門構えの、伝統的な
山沢に先導されて、五十槻は久々に実家の上がり
「まあ坊ちゃん」
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
屋敷の中はさすがに慌ただしかった。廊下を進むなかで、顔見知りの使用人達がばたばたと忙しなく通り過ぎていく。忙しくても五十槻に対する挨拶は欠かさなかったので、都度、五十槻も一言二言返していく。
「五十槻!」
「お帰り五十槻、いつぶりかしら!」
長い廊下の中でばったり出くわしたのは、二人の姉だ。長女が
「生まれたわよ、赤ちゃん!」
「えっ、もう?」
「和緒さんもお元気よ。さ、早いとこお見舞いに行ってあげなさい」
とん、と背中を押されて、五十槻はさらに屋敷の奥へ進む。山沢はいつの間にかどこかへ行ってしまった。たぶん家令に呼びつけられたのだろう。奥の間に近くなると、段々と赤子の鳴き声が聞こえてくる。
「失礼します。五十槻です」
奥の間の襖に一声かけて、五十槻はそっと引手を引いた。
「五十槻!」
「五十槻さん」
お産の後始末をすっかり終えた部屋の中には、父・
五十槻は居住まいを正して正座し、畳の上へ指を置くと、そのまま丁寧に座礼を行った。
「父上、和緒さん。この度の御出産、
「もう、この子はいつまで他人行儀なのかしら。ねえ克樹さん?」
「あ、ああ」
からからと朗らかに笑う和緒に、父は涙を拭いながら頷いた。父は前に会ったときより、少し痩せたかもしれない。
「ほら、五十槻さん。抱いてあげて」
「え、ええっ」
生まれたばかりの赤子を差し出す和緒に、思わず五十槻は畳から顔を上げた。抱かれている赤子は見るからにふにゃふにゃで、少し扱いを間違えればすぐに傷つけてしまいそうだ。
「いけません。僕は先刻、
「ふふふ、ならなおさらよ。丈夫な子に育つよう、きっと神様の御加護があるわ。ほら、お兄ちゃんですよ~」
「うわ、あ」
ほとんど無理矢理押し付けるように腕へ乗せられた赤子は、驚くほど小さくて軽かった。落とさないよう気を着けながら、五十槻はまじまじと新生児の顔を覗く。赤子、という通り、真っ赤だ。白いおくるみの中で手足をわきわき動かして、やっぱりほにゃほにゃ泣いている。
「五十槻」
じっと真顔で赤子に見入っている五十槻へ、傍らから父が呼びかけた。振り向いた我が子へ、父は一言。
「……男だ」
「え」
「お前の……弟だ」
父の言葉は重々しい。先程まで流していたのは間違いなく喜びの涙だったのだろうが、今はお通夜もかくやというほどに重苦しい雰囲気を纏っている。
「来なさい五十槻。話がある」
赤子を和緒に返し、五十槻は父に連れられて書斎に通された。人払いをし、父と息子は二人きりで向かい合う。父の雰囲気は重いままだ。その理由に五十槻は心当たりがある。
生まれてきたのが、男の赤子だった。ということは。
「すまない、今まで大変な苦労をお前にかけてきた!」
開口一番、父は額を床へこすりつけるようにして土下座した。「父上、やめてください」と五十槻が肩を起こすと、父はまた泣いている。今度は悔恨の涙のようだ。
「我が家にこれまで男児が生まれないばかりに、女子のお前に性別を偽らせ、男として……それも軍属の
「…………」
父の言う通りである。五十槻の本来の性別は──女性。
確かに特異な生い立ちのおかげで、これまで苦労が多かった。しかし五十槻は父のことを恨んではいないし、自らの境遇をしっかり受け入れているつもりである。
──父上、五十槻は気にしておりませぬ。
と、五十槻は父を慰めようと口を開きかけた。しかし五十槻が言葉を発する前に、父は涙を拭いつつ、途端に晴れ晴れとした顔となる。
「だがこれより先、お前は性別を偽らずに生きていける。正式な後継ぎが生まれたのだからな!」
父は五十槻の肩をがっしりと両手で掴むと、希望に満ち溢れた目で言った。
「五十槻。軍にはすぐにでも除隊願いを出しなさい」
「な、なんと?」
「これからお前は女子として生きるのだ!」
女子として。
女子として。
女子として。生きるのだ。
五十槻の脳裏で、父の言葉がわんわんと反響する。しばらく何を言われたのか分からなかった。
そう、
家庭の事情により、物心つく前から男子として生きてきたが、本当の性別は女性である。職場はもちろんのこと、父以外の家族すら知らない事実だ。
「えっ……」
五十槻は頭が真っ白になった。
急にそんなことを、言われても。
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