第30話 記憶喪失


 容態が落ち着いて、香帆が東京の市民病院に移された。

 志桜里はその病室へと訪れた。

 香帆は酸素マスクを身に付けて、すうすうと寝息を立てている。

 

 三日前、喫茶店で蛍に呼び出された。

「香帆は……出血量が多くて、もしかしたらもう」

 目覚めないかもしれない。はたまた、もう死んでしまうかもしれない。

 そんな瀬戸際。危険な綱渡りを彼女はしているのだと。

 志桜里は涙をぬぐった。泣いていたってどうにもならないのに。

 それでも……それでも。自分の無力さを歯がみしながらでも解決策を脳内で模索している自分がいる。

 けれど、運命というものは思い通りにはいかないものだ。


 毎日見ていた夢があった。

 それは運命や宿命を自分の体で破壊する夢。

 それが最近、ぴたりと見なくなった。

 代わりに、見始めた夢がある。

 それはバス停の屋根の下、雨脚がそっとそれを撫でながらしたたり落ちるころ。香帆と志桜里が口付けを交わしているといったものだ。

 なんて馬鹿げた夢だろうと思う。

 

 でも、再び彼女の唇に触れたい。彼女をめちゃくちゃにしたい。そんな願望が湧き出てくるんだ。

 

 それからやりたいノートを素直にこなしていった。

 動物園にも、水族館にも、映画館にも、プリクラも独りで行った。

 それでも、なにか空っぽな自分がいるんだ。


 そして最後のやりたいこと――花畑に行く。その前に蛍から連絡があった。

 

 香帆が目覚めたと。


 急いで病院に駆け付けた。そして彼女に涙を見せないように笑いかけた。

「あのーあなたは?」

 香帆が首を傾げながらそう言った。

 志桜里は目を見開き、側にいた蛍を見た。彼女は一段と悲しそうな顔をしていた。

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