5 人、化け物。怪物、偽物。
夢とは言えない、何かを見た。
赤黒い鮮血が舞い、悲鳴と肉のひしゃげる音だけが響き渡る。
殺して、壊して、暴れ続けて。
自分の意志ではなかったはずなのに、心の底の底、無意識のうちにそれを求める自分がいた。
その欲求が、衝動が、溢れ出したのだろう。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
ただ今は、この心地よい時間を過ごすことに全力を尽くして――
「――せません」
――どこかで、声がした。
*********
少しの息苦しさと寝苦しさを感じて、善は目を覚ました。
「……寒い」
暗く、狭い空間にいる。それをかろうじて認識して、体を起こす。
ふと壁に目を向けると、そこには象形文字のような模様が壁一面、びっしりと書かれていた。
自分の周りを囲んでいる石レンガ造りの壁は、苔むしていて少し赤い液体が付着している。
吐き気がこみ上げるような鉄臭さからすると、これは血なんだろう。
試しに触ってみると、善の指にも赤い染みができた。
血は乾いていない。つまり、まだそう時間は経っていないことになる。
――いや、そもそも何で壁に血がついている。
善はフーミアの家にいたはずだ。血が出るようなことも、こんな古い石造りの建物も知らない。
壁が円形になっているところから、これはどちらかというと井戸のような――
「――ぁ」
井戸、そう井戸だ。
苔むした石の壁、そしてそこから漏れ出る青い光。
それに近づこうとした善を、誰かが襲撃した。心臓を貫き、頭を踏み潰して彼を殺したのだ。
「生き、てる?」
人間に限った話ではないが、通常生物は心臓を潰された時点で死ぬ。しかも善は頭――脳まで破壊されたのだ。
生きているはずがない。
胸の傷はどうなったのか、確認しようと善は視線を落とす。
そこに、傷はない。ただ、服が赤く染まっており胸の部分に穴が空いていた。
その大きさは丁度、西洋剣の刃が入りそうな大きさだ。
「……夢、って線はないか」
あれが実際に起った出来事となると、善の現状もなんとなく想像がつく。
恐らく頭を潰されたあと、井戸に落とされたのだと思うが――
「問題は、俺自身が生きてるってことなんだよな……」
犯人は死体遺棄のために落としたのだろうが、肝心の善はこの通り生きている。
正直善もこれは理解ができない。
自分は死んだはず――なんて、これから先絶対に考える機会など存在しないだろう。
これが夢でないことを念頭に置くと、考えられる可能性は一つ。
「……異世界ボーナス、ってか?コンテニューか、もしくは不死身」
どちらにせよありがたいものではない。なにせ、死ぬことが前提の能力なのだ。
痛みが緩和される等の恩恵がないのであれば、これはただの生き地獄。
死にたいくらい苦しいのに死ねない。死ぬべき瞬間でも、死ねない。
このまま『生かされ続ける』のだとして、善はあと何回あの苦しみを味わう?
「……ッ」
そう考えた瞬間、体が震えだした。
寒さは関係ない。何せ、もう寒さは気にならなくなっている。
あるのはまだ見ぬ『死』への恐怖と、今回の『死』により与えられた苦しみ。
痛かった。いや、熱かった。
ゆっくりと死が近づいてくるあの感覚と、体感何時間にも及ぶ苦しみ。
あんなのは、もう二度と御免だ。
「むしろ、さっさと殺されて正解だったかもな」
あれ以上時間がかかっていたら、きっと善は壊れていた。
脳が潰され、記憶が飛んだからこそ、今善は冷静に状況を把握できた。
と言っても、犯人に感謝するつもりは微塵もないが。
「井戸の蓋は……空いてない、か」
僅かな隙間が空いているようだが、これでは覗き込むくらいしないと気づけ無さそうである。
大声を出しても、助けが来てくれるかどうかは不明。こうなると、助けは期待できそうにない。となると、自力でどうにかするしかないだろう。
深さは恐らく四、五メートルほど。とてもジャンプで届く距離ではないし、ロープでもない限りは登ることも厳しそうだ。
となるとロープ代わりの何かを探すべきか。
だが善のいる空間は狭く、木の葉一つすら落ちていない。
あるのは善から流れ出た血溜まりのみだ。
「だったら、登るしか」
幸い、掴めそうな場所は幾つかある。善の身体能力では厳しいが、それでも登りきらなければ命はない。
なにより、善を落とした犯人が村に潜んでいる可能性があるのだ。
犯人の凶刃が他の誰かに及ぶ前に、ここを出て皆に危機を知らせなければ。
あるいは、もう既に――
「――やめよう」
ただでさえ活路を見いだせない絶望的な状況なのに、村の皆まで失うなんて想像はしたくない。
独り言で紛らわせているものの、今彼が感じている孤独感は強い。
孤独を感じると人は数時間で狂ってしまう、なんて記事を見たことがある。
彼の心が壊れるまでが、彼に許されたタイムリミット。
唾を飲み込んで、善は石造りの壁に手を当てた。
*********
「……」
それから、何時間が経過した頃か。
彼は独り言すら言わなくなった。――いや、言えなくなった。
耳鳴りが酷い。少しじっとしておくと誰かの話し声が聞こえたような気がして、上を見てしまう。
そのたびに、差し込む陽光に目を焼かれるのだ。
そう、陽光だ。
夜は明け、日が昇っている。
具体的な時間の検討はつかないが、それほど長く善はこの井戸を登ろうと悪戦苦闘していた。
ずっと登り続けたことで、収穫はあった。……尤も、収穫と言えるのか怪しいレベルのものだが。
井戸の壁は赤一色で染められており、壁に書いてあった文字らしき模様も完全に見えなくなっている。
昨夜見た青い光はこの文字から発していたのだろう、なんて無駄な考え事もしてみた。
しかしそれでも、善の孤独感は強まり続けている。
極めつけに――
「この、無傷の体」
善の体は何度も修復されている。
爪が剥がれ、指の肉が削ぎ落とされ、頭や足を打って骨が砕けようと、善の体はものの数分でその尽くを修復した。
痛みを感じ、悶えている間に傷は塞がれる。
完治に何ヶ月かかる傷だろうと、一瞬で治ってしまう。
ようやくわかったのだ。
彼の能力は『修復』。
体の再生と死の回避、今の状況と絶望的に噛み合わない能力だった。
「……いらねえよ、こんなの」
せっかくくれるなら、もっと強い能力が良かった。
空を飛べたり、強力な魔法を使えたり、超能力的な何かを使うことができたり。
妄想は留まることを知らない。だが、こうしなければ正気を保っていられない。
自分が『上手くいった世界』を考えなければ、少しでも綻びを見せてしまえば、善の意識は絶望感に蝕まれて無くなってしまう。
正気を保てと、自分に言い聞かせた。
こうできたはずだと、後悔した。
――絶望など、疾うの昔に終わらせている。
何重にも及ぶ苦しみの果に、あるのはやはり絶望だ。
何もできなかった。何もやらなかった。
頭を回せば回すほど、後悔が、自責が、未練が、溢れ出す。
しかし思考をやめれば、たちまち善は壊れてしまうだろう。
廃人にはなりたくない。かと言って、自分を責めたいわけでもない。
八方塞がり、四面楚歌。
自分の敵は自分だとはよく言ったものだ。
体の震えが止まらない。歯が何度も合わさり、カチカチという不快な音が絶え間なく響いて善の耳に届いていた。
「あぁあぁあああぁああ!」
力任せに、腕を壁に打ち付ける。
震えている暇はないのだ。登れ。ここから開放されたくば。
左腕、止まらない。右腕、止まらない。
全身を打ち付けても、震えは留まることを知らなかった。
カチカチという音が次第に大きくなり、善の恐怖感を煽る。
歯を止めようと指を噛むも、痛みだけが襲いかかってくる。
それに、音が止まったところで震えが収まったわけではないのだ。
「止まれよぉ!!」
壁を殴っても、蹴っても、震えは止まるどころか強くなっていく一方だ。
こんなことなら、昨夜死んでしまえばよかった。
心臓を貫かれ、頭を潰され、そのまま死んでしまえば、今こうして孤独と絶望に狂わなくてすんだのに――
「――死ねば」
最初に起きた時、死ぬ直前のことを覚えていなかった。恐らく、脳が潰されたことで記憶が飛んだのだ。
――だったら、今ここで頭を潰してしまえば、少しの間だけでもこの狂気を忘れられるのではないだろうか。
また思い出したら地獄を見るだろう。だが、その時はもう一度忘れればいいだけだ。
大丈夫。いつか正気を取り戻すまでだ。
冷静さを取り戻しさえすれば、もう一度登って脱出を目指そう。
「は、はは、はは」
なんでこんなことにも気づかなかったのだろうか。
そうだ、嫌なことは忘れればいい。見たくないものは見なければいい。挫けそうになった時は、逃げればいい。
――頭を壁に打ちつける。
早速頭が割れたのか、額から血が伝ってきた。
この調子で何回も、素早く打てば、再生も間に合わないはずだ。
――頭を壁に打ちつける。
あまり時間はかけられない。痛いものは痛いのだ。
――頭を壁に打ちつける。
早く、この無駄に硬い頭を割ってしまわなければ。
――頭を壁に打ちつける。
いつここから出られるのかはわからないが、
――頭を壁に打ちつける。
そんなことを考えている暇はない。
――頭を壁に打ちつける。
一刻も早く正気を取り戻さなければ、
――頭を壁に打ちつける。
……あれ?何のためだったっけ。
――頭を壁に打ちつける。
まあ、
――頭を壁に打ちつける。
そんなの、
――頭を壁に打ちつける。
どうでもいいか。
――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。――頭を壁に打ちつける。
頭を――
「剣、見つかりませんね」
「――あ?」
一瞬、幻聴かと疑った。
懐かしい声だ。何年も聞いていなかったような気がする。実際は、一日も経っていないのだろうが。
幻聴なら、邪魔をしないでほしい。――ほら、再生が始まってしまったではないか。
「昨夜は私の家の前に立てかけてあったんですけど……」
「……?」
再度頭を打ちつけようとした善だったが、聞こえてきた幻聴――いや、声に耳を傾ける。
さくや、サクヤ、昨夜?
昨夜は初めて善が殺されたときだ。
こんな思いをする羽目になったきっかけだ。
善が、殺された時。
殺されたあと、この井戸からどうにか出ようとして――
「――ッ!!」
朦朧としていた意識が覚醒し、跳ねたように善は飛び退いた。勢い余って後ろの壁にぶつかってしまったが、これも必要経費だろう。
そうだ、善の目的はここから出ること。
決して、『死んで楽になる』ことではない。
あまりに長い孤独に苛まれた結果、おかしくなってしまったのだろう。
「……と、そんな冷静な分析してる場合じゃない……!」
これが幻聴だとしても、一縷の望みで助けを求める価値はある。
そもそも声の内容に脈絡があったので、これが幻聴ではない可能性は十分にあるのだ。
話し声程度の声量だが、井戸の中は音がよく響く。そのお陰で、声を拾うことができた。
そうと決まれば、と善は大きく口を開けて、
「たす――」
「やっぱり盗まれたんですかね?昨日倉庫に言ったときも予備の剣が一本なかったみたいですし」
「――は?」
聞き慣れた、いや、聞き飽きた声が聞こえた。
少し違って聞こえるものの、間違えるはずがない。
この気怠げで感情の波が見えに行くい声、何よりその口調。
『お前、声だけじゃホントに何考えてるかわかんねえな』
いつか、地球にいた頃キョウヤに言われたことを思い出す。
信じられない。信じられるわけがない。
だがそれでも、現実は残酷な事実を突きつけるのみだった。
「別のところも探しましょうか――善さん」
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