6 化け物どうし

 何が起こっているのか、理解できなかった。

 

 自分と同じ声で、自分の親しい人と、何もなかったかのように話して。

 そして、


『善さん』


 自分の名前で、呼ばれた誰かがいる。

 それを理解するのに、そう時間はかからなかった。


 しかし、他でもない善自身が、それを否定しようと足掻いている。

 他の可能性をいくら考えようと、『自分に成り代わられた』という事実を覆すような考えは浮かんでこない。


 もはや善は、何者でも無くなったのだ。


 誰も使わぬ井戸の中で、誰にも知られぬ痛みを味わい、誰も解らぬ絶望を味わい、誰にも与えられないような地獄を見た。


 その結果がこれだというのだろうか。


 話し声が遠ざかっていく中、善は一人、


「何でだよ……」


 と、震えた声で呟くのだった。


 ――それすらも、誰の耳にも届かぬまま、消えた。



 *********



 フーミアの朝は早い。


 野菜の手入れをしなければ、すぐにだめになってしまう。

 品種改良されたものならもう少し余裕ができるのだが、生憎そんな高級品を買える金は持っていなかった。


 早くに起き、畑のもとへ向かう。


 この時間、恐らく善は寝ている。

 彼は旅人にしては珍しい、多く睡眠を取るタイプなのだろう。


 まだ彼が来て日は浅いものの、彼がどういう人柄かは初対面のときからなんとなくわかっていた。


 基本的には自分のできることだけをして、できないことはしようとしない。

 多分、フーミアと同じタイプだ。


 彼女も自分ができることしかやりたくないし、やろうと思わない。

 

 ――そうやって逃げ続けることが、良くないことだとわかっていても。


『フーミア、あなたはここで待っててね』

「うっ……」

『……ごめんな、騙すような真似して』


 ――夢を見た。


 彼が来た日、昔の夢を見たのだ。

 この村に来る前の記憶、忘れようにも忘れられない記憶。

 今の『彼女』を形作った、忌まわしく愛おしい記憶だ。


 「駄目です……私だけが苦しんでるなんて、」


 考えちゃいけない。


 彼女は逃げた。逃げることしかできなかった。

 『不可能』は覆らない。『不可能』から逃れることはできない。


 ……だって現に、彼女は何もできなかったのだから。


「……フーミアさん?」


 不意に聞こえた声に、驚いたように顔を上げた。

 そこにいたのは、


「どうしたんですか?顔色、悪いですけど」


 畑で彼女を座って待っていた、善だった。


 「ぁ……」


 彼の顔を見た瞬間、心臓が高鳴った。


 動機が激しくなり、めまいがする。

 自分の体が、本能が、何かを訴えかけているのだ。

 フーミアはどうしても、この場から離れたくなるような衝動に駆られてしまった。


「フーミアさん……?」


 心配そうな表情を浮かべ、善が肩に手を伸ばしてくる。

 一瞬、強い拒否感。フーミアはそれに、


「……ッ!」


 従うままに動いて、善の手を払い除けていた。

 乾いた音が響き、今度は善が驚いたような表情を浮かべる。


 ――やってしまった。


 理由はわからないが、どうしても彼に触れてほしくなかった。

 現に、彼女の体は少し震えだしている。

 くらくらと視界が揺らいで、揺らいで――


 「……あれ?」


 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 泣きたい理由などないのに。泣くほどのなにかがあったわけでもないのに。


 まるで大切な誰かと再開したかのような、そんな感情が込み上げてきた。


 そんなわけがない。

 目の前の少年は、『あの人』とは似ても似つかない。

 それに――


「何をっ、今更……」


 人を信じることなど、疾うの昔にやめたではないか。


「フーミアさん……」


 泣き続ける彼女を、彼は寂しそうに見つめ続けた。



 *********



 「今日は私がイモを運びます。昨日運びきれなかったものが幾つかあるので、善さんはその中で食べられそうなものだけをこの籠に入れてください。私は、私の剣がどこに行ったのかディエスさんたちに聞いてきます」


 善に指示する彼女の目は腫れている。

 泣き続けて、涙が枯れてしまったのだろうが、今の彼女にとってはかえってそれがありがたい。

 これ以上醜態を見せるわけにはいかないのだから。


 

 *********



 結局、ディエスやユーベに聞いてもフーミアの剣について情報はなかった。

 倉庫の剣も一本無くなっているようなので、恐らく剣だけを狙った盗難だろう。

 ディエスは「わざわざ剣を狙う理由がわからない」と言っていた。フーミアもそう思う。


 そもそもこの村は滅びるかどうかの瀬戸際で持ちこたえているだけで、少しの衝撃で瓦解しかねない危うさを抱えているわけでもある。


 それこそ食料を奪われれば、途端に生活は苦しくなるし、近くの川が無くなってしまえば、全滅も時間の問題だろう。


 武器だけをピンポイントで、それも一本ずつ狙う意味がないはずだ。


 武器はそこそこ高価なので金銭面での打撃はあるかも知れないが、やはり決定打にならない上にもっと早い方法があるのに、そちらを選ばないのは何かしらの意図があってのことだろう、とディエスとユーベ、フーミアは結論付けた。


 畑に戻ったフーミアは、分別の終わった善に目をやると、


「この籠を運んだら、剣を探しましょうか。――私の家の、裏辺りで」



 *********



 オレンジ色の光に照らされながら、善は膝を抱いて放心状態となっていた。


 わかっているのだ。


 今すぐ動くべきなのだと、今すぐあの偽物を打ち倒して、平和で楽しい日常に戻るべきなのだと、理解しているのだ。


 理解したうえで、善の体は動く気力すらなくしてしまった。


 打開策を考えた。最適解を考えた。

 今すぐ、この異世界での安寧を、取り戻す方法を考えた。

 でも、違うのだ。善が欲しいのは、そんなことじゃない。


「……帰りたいなぁ……」


 頬を伝う涙が、今はなんだか暖かい。

 乾いた唇の足しにもならないが、その熱がかつての日々を思い出させてくれる。


 親友と笑いあった日も、両親と喧嘩したまま死なせてしまった日も、最早遠い。


 日本にいた頃は、『今日』何が起こったかなんて気にしていなかった。

 いつも通りの日々、祖父母から聞かれても「普通」としか答えてこなかった。

 そのつけがこれだとしたら、あまりに重すぎるのだろうが、そう思わずにはいられない。


 ――失って初めて、失ったものの大切さに気づく。


 それを善は何度体感しただろうか。

 日本を捨て、親友を捨て、人間の体を捨て、唯一この地獄から抜け出す術を捨てて。


 その結果、善はもう自分すら信じられなくなってしまった。


 そう、自分すらだ。


 考えていくうちに気づいてしまった。

 ここにいる自分と外にいる『自分』、そこに違いはあるのだろうか。

 スワンプマン、という思考実験がある。


 ある男が雷によって死に、その近くにあった泥からその男と同一の存在が生まれるというものだ。

 その存在は男の記憶を持ち、男の自意識を持ち、自身が既に死んでいることすら知らない。

 完全に同じなはずなのに、同じにはなり得ないという矛盾を抱えた存在なのだ。


 自分はどうだ?


 いくら傷つけられても死なない体を持った善と、井戸の外で自分と同じ日常を過ごしているであろう『善』。

 この二つが同じである場合、果たしてどちらが『本物』と言えるだろうか?


 善は殺された時、犯人の顔が見えなかった。先程までは『善』に殺されたものだと思っていたが、それもやはり仮説に過ぎないのだ。

『善』が偶然の産物であることは否定できないし、逆に善が『善』から生み出された存在である可能性もある。


 善を殺した犯人は別にいるかもしれない。


 「だからって、俺にどうしろってんだよ」


 善はもはや空っぽの存在だ。

 自分が自分であることにすら疑問を抱き、誰にも見えぬ場所で一人絶望し、勝手に壊れてゆく存在。

 そんな弱者に、突破口を見いだせるはずもない。


 強くて賢くて、何でもできる英雄のような人間でなければ、それは成し得ない。そして、善はそんな『英雄』を知っている。


 「――キョウヤ」


 日本に置いてきてしまった、たった一人の親友だ。

 彼ならば、人望に厚く義理堅く優しい彼であれば、きっとこんな状況下でもどうにかしてみせるのだろう。

 何せ、彼は善を救ってくれた。


 中学生の頃、両親の死に悲しんでいた善の背中を押してくれた。

 善の悲しみを、苦しみを、全て吐き出させて、励ましてくれた。


 ――その時、彼はどんなことを言っていただろうか。


 両親が死んだこと、それは善にとっても思い出したくない出来事であることは今も変わりない。

 でも、縋りたくなってしまった。逃げ出したくなってしまった。


 両親の死に続いて、善自身が死んでしまった。


 もう壊れてしまいそうなのだ。

 このままここで朽ち果ててしまいたい。そんな無意識下での願望は、そう諦める理由を求めた。


 そうして、封をしていた記憶がこじ開けられて――


『……俺の親じゃないからさ、わかったような口は聞けないけど』


『笑ってくれよ』


 「……え?」


『泣くななんて言わない。悲しむななんて、言えるわけ無いだろ。……でも、俺はお前が泣いてるのを見てられないんだよ』


『お前の気持ちを、全部理解してるわけじゃないんだ。でも、俺の気持ちなら全部わかる。だから、お前には立って、笑ってほしいんだ』


「……違う、だろ」


『ああ。俺だって見当違いのことを言ってるって自覚はしてる。でも、俺はお前が泣いた「今日」より、お前が笑った「今日」を見たい』


『悲しくても、苦しくても、またお前と笑いあえる日々が、俺はほしい』


「……」


『――お前は、違うか?』


 「……」


『お前の気持ちはわかってやれない。でも、伝えることはできる。そのための口だ、そのための言葉だ。そのための、体だ』


『お前と笑う一日が大好きだ。俺が笑う一日が大好きだ。お前は違うのかよ!?』


「違く、ねえよ」


『そうだろ!?だから、お前には笑ってほしい!今日を、嫌いだって思いたくない!今日が好きになれなくても、明日を嫌いだって、そう思いたくない!――なあ、』


『俺達の大好きな明日を、俺とお前で作るんだよ』


 「……そっか」


 全部、思い出した。……いや、追体験した。

 あの時と同じ理由で泣いて、あの時と同じ言葉を吐いて、


 ――あのときと同じ言葉で、立ち上がった。


 それは決して、諦めることを肯定するものではなかった。

 それは決して、逃げることを肯定するものではなかった。


 でも、やりたいことは、決まった。


 頬を伝っていた『熱』も消え、善は改めて上を見上げる。

 微かな光も消えつつあり、夜になればきっとどこかで悲劇が起こる。

 それは耐えられない。


 だから手を伸ばすのだ。


 「あの人達と笑う明日が、大好きだから」


 口元を緩め、手を伸ばした。

 届かぬ壁だ。何度も見て、何度も絶望した壁だ。

 でも、今なら怖くない。


 心臓の鼓動がやけに煩い。

 騒がしく鳴り響くそれは、彼の何かが殻を破る前兆のようで――


 「俺はもう人間じゃない。それが、どうした」



 *********



 日も完全に沈み、辺りはすっかり暗くなった。

『善』は徐ろに立ち上がると、自分がもたれ掛かっていた一本の木に手を当てる。

 その姿がぐにゃりと曲がって、一本の西洋剣となって『善』の手に収まった。


 無表情のまま、『善』は一歩踏み出して――


 「そっちは川だぞ」


 声が、響いた。


「誰か水浴びしてるかも知れない。そっちに行くと、覗き魔のレッテルを貼られるかも知れないぞ」


 その男は心做しか上機嫌に、『善』に語りかける。


「まあそう怖い顔をするな。俺は話をしに来たんだよ」


 その男は心底愉快そうに笑って、


「仲良くしようぜ?化け物どうし」


 と、目の前の男――善は、その白い歯を見せつけるのだった。

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