第一章 Torch ⑤
その後、いくつかの書類にサインをし、その日は終了ということになった。退職書類とほとんど同じ形式の入社書類を同じ日に書くとは、中々変わった経験である。レアな経験であるのは間違いないが、掘った穴を自分で埋めているような、名状しがたい徒労感があった。
とはいえ、これで解放される。と思っていたら、ベルガーからエレフェリアだけ残るように言われた。
アデオナがバイバイと小さく手を振って先に退室する。開いたドアが閉じる音がやけに大きく室内に響き渡った。そして部屋の中にはエレフェリアとベルガーだけが残された。
「エレフェリア・ナーリヤ。十六歳。昨年まではベルベン近郊の養護施設で育つ」
ベルガーが書類を読み上げる。改めてそう言われるとなんだか緊張する。さっきスキップされた身の上話を、改めてしたいということだろうか。
「……いくつか質問しても?」
「はい」
「養護施設にはいつから?」
「確か四歳の時です。ある夜、玄関に一人でいるのを発見されたらしいです」
「養護施設に入る前はどこにいましたか?」
「……ええと、正直あまり覚えていません。名前が書かれた紙以外、私を示すものは何も無かったそうです」
「その他の記憶は?」
「父親の記憶が、微かに。本が好きでよく色々なことを教えてくれた気がします。他は、あまり……」
「ふむ」
アデオナへの会話と比べると、こちらへの温度が違って感じられた。詰問、というほどではないが、会話の端々からこちらを探るような気配を感じる。ややあって意を決したのか、書類から目を上げて訊いてくる。
「単刀直入に訊きます。あなたはスフェーンではありませんね?」
エレフェリアの右眼はアデオナと同じ、くすんだ緑色だ。しかしその左眼は、鮮やかなマリンブルーの輝きをたたえていた。左側に多く払われた前髪が、その眼をカーテンのように隠していたが、それでもじっくり見れば両眼の色が異なることは分かった。両目の色が違う。それは生粋のモスには現れない特徴だった。
「私には分かりません。生みの親をよく知らないので。ただ、私はスフェーンの子の集まる施設で育ちましたし、自分のことをスフェーンだと思っています。そのことについて特段異議はありません」
エレフェリアのようなイレギュラーの扱いは難しい。施設の大人も苦労することがあったらしい。ただ、どうであれ、今のエレフェリアは自己認識として、自分はモスだと思っていたし、それはアデオナをはじめとした周囲も納得してくれていた。髪型はその決意の表現の一つのつもりだった。
ベルガーが窓際の花瓶の花に目をやる。つられてエレフェリアもそちらを見る。こういう時、風景に彩があるのはいいなと思った。二人して花を見たまま、少しの沈黙。やがてベルガーが口を開いた。
「では、その見た目で苦労したことは?」
あまり積極的にはしたくない話だった。が、目の前の人間は真摯に向き合ってくれているような気がした。だから素直に答える。
「幼い頃はよくからかわれました。周り、スフェーンばっかりでしたし。もしもできるなら、眼を取り出して入れ替えたいと本気で何度も思いました。眼のことを指摘されるのは、今でもちょっと嫌です。だからそういうのはなくなってほしいんです。この会社のような採用方式が広まって、みんな別々でも許容できるような。そんな風になったらいいな、って思ってます。だから、今は大丈夫です」
どの程度理解してもらえるかは分からない。質問に対する正しい答えになっていない気もする。それでも今、思っていることを自分の言葉で伝えた。
「……なるほど。よく分かりました。……では、今日は以上です。お疲れ様でした」
どうやら何かが終わったらしい。お疲れ様でした、と言われたので、とりあえず儀礼的に頭を下げる。
「ありがとうございました。……えっと、では、失礼いたします」
「ああいえ。用事はもう一点あります。実は……」
ベルガーが手元から書類を差し出す。目を向けると、エレフェリアのサインが見えた。先ほどエレフェリアが書いた書類だ。
「こちら日付の欄なんですが」
日付の欄には自分の字で「三月三十日」と書かれている。今日の日付だ。精一杯見栄え良くなるようにゆっくり書いたのを覚えている。
「あれ、今日って三十日じゃなかったでしたっけ?」
「いえ、こちら日付は今日ではなく、着任日の四月一日を書いてもらえますか?」
「……」
「ああ、正式なものなので、二重線で消すのではなくこちらの新しい様式をお使いください」
取り出したペンを持った右手が固まる。取り出されたまっさらな新しい紙をまじまじと見る。
「…………えー」
また中身のない作業をしなければいけないらしかった。大企業も良いことばかりではない。
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