2.遭難②

 どれほどの時間水に揉まれていたのか、ハインリッヒとセラフィーナは冷たい感触が消えたのを感じ取り、目を開けた。


「外──?」


 二人の視界に飛び込んできたのは、また別の水面だった。


 水槽に顔を突っ込んだ二人は、水中で一瞬悶えた後、死に物狂いで水面に上がった。水槽から飛び出した二人は、今度は異様なまでの眩しさに目が焼かれるような感覚に襲われた。


「何だ?」


 視力強化の魔術を解除してから目を開くと、そこは一面が真っ白な大理石で覆われた巨大な部屋で、十数メートル上の天井部にある巨大な光球が太陽のごとき光を放っている。先ほどまでいた遺跡とは違い、風化や崩壊の気配が全く無かった。


「また違う遺跡にたどり着いた?」

「ああもう……スカートがすっかり濡れて……」


 セラフィーナはチェック模様が特徴的な赤いスカートの縁を絞った。二人とも水に濡れ、風を引いてもおかしくない状態である。


「寒いな……」

「っていうか、何でさっきはいきなり私のことを引っ張ったのよ」


 セラフィーナは抗議するように言った。その上、淑女にいきなり抱きつくとはどういう了見なのかと。


「ああ、穴に着いたところでちょっと思いついたんだ。この穴の先が一本道じゃなかったら、流されてる最中にはぐれるかもしれないなって」

「潜る前に思いついてほしかったわ」

「済まない」


 謝りつつ、ハインリッヒはセラフィーナを抱き締めた時に感じた彼女の胸の感触を思い出していた。


 魔術で服や髪を乾かした後、態勢を整えた二人は改めて部屋を見渡した。


「新しい……というか、部屋全体が魔術で保存されているのか」

「これってダンジョンか何か? 魔物に遭ったらどうするのよ」

「二人いれば何とかなるだろ。それに君は武官貴族の娘だろ。戦闘魔術は俺よりも得意なんじゃないか?」

「そうかもしれないけど、もしもの時は自分で身を守りなさいよね」


 そんな会話をしつつ、ハインリッヒとセラフィーナは歩みを進めた。


 二人は壁や柱に彫られた彫刻に感嘆した。グロテスクなまでの精巧さで作られたそれは、おそらく百年単位の年月をかけねば完成できないと思わせるほどだ。


「本当に何なのかしら、ここ……」

「彫刻コレクターが作った展示場か?」


 彫刻の精緻さに貴族である二人は作り手の腕を認めようと思ったが、その題材には違和感を禁じ得ない。


 天に吸い上げられていく金貨を必死に掴もうとしている亡者。美姫にしがみつきながら、その美姫の手にあるナイフで胸を刺されている王。観衆に指を指されながら串刺しにされている子供。どれもが良く言って悲観的、悪く言って悪趣味なものばかりだ。


「美術的価値は高そうだけど、ちょっと趣味が悪くない?」

「それには同意だな。……ん」


 精巧な彫刻の柱に挟まれた通路の先に、巨大な像があった。長身かつ華奢な身体にローブを着た美丈夫で、右手に槍を持ち、空中に伸ばした左手の掌の上には、小さな光球が浮遊している。


 十メートルほどだろうか。その像は整然とした威圧感でもってハインリッヒとセラフィーナを睥睨へいげいしていた。


「何よこの像。他の彫刻みたいに悪趣味な仮面を着けて……」

「仮面……」


 セラフィーナの言う通り、その像はの顔は仮面として彫られていた。素顔を見られぬよう、不敵な笑みを浮かべている仮面。ハインリッヒはそれに引っ掛かるものがあった。


「あの仮面、どこかで見たことが……」

『見たことがあるに決まっているだろう』


 突如、石像から声が響き渡った。若く、世界の全てを見下していそうな傲慢な声だ。


「!」


 二人は戦闘態勢を取る。が、石像は余裕綽々といった声音で言った。


『やめておけ。そんな魔力も少ない状態で魔術を使って私に勝てる訳が無い。いや、下等生物であるお前たちに私は倒せない』

「かっ、下等生物?」


 あまりの物言いにセラフィーナは思わず復唱してしまう。ハインリッヒは反射的に相手をただす。


「何だお前は!」

『リミルス・ガルミネア。契約と願望を司る、魔族の最上位種である』

「リミルス……何?」


 ピンと来ていないセラフィーナ。比較して、ハインリッヒはその名に覚えがあった。


「リミルス・ガルミネア……魔王の一柱!」


 この世界には人間を襲う魔物という害獣が存在している。ほとんど人間はそれらが元から自分たちのいる世界に住んでいると認識しているが、実はそうではない。魔物は、異次元からの来訪者なのだ。


 魔物の故郷は人間界の上層に存在する〝魔界〟と呼ばれる世界で、そこには人間の能力を遥かに上回る魔族が住んでいる。そしてそんな魔族の中でも神のごとき力を持つ個体は〝魔王〟と呼ばれ、同じ魔族からも恐れられるのだ。


 物理的制約が存在しない、不定形の世界である魔界に独自の領域を持ち、多くの魔族や魔物を従える魔王は、人間界で信奉されている神々にも匹敵する力を持っている。かれらは一様に不老不死で、仮に肉体を失っても数年程度で復活するといわれ、それすらも魔王からすれば一瞬の時間なのだ。


 そんな魔王は様々な理由で人間界に干渉し、人々に利益や祝福をもたらすが、魔族であるが故に人間基準の善悪に疎く、時として人間界の存亡に関わる大事を引き起こす迷惑な存在でもあった。


 そしてハインリッヒとセラフィーナの目の前にいるリミルス・ガルミネアは、契約を司るという性質上、人間との関わりも深い魔王だ。幼児が聞くようなおとぎ話などにも度々登場し、人間の願いを曲解して叶えたり、最悪なタイミングで契約の代償を払わせて破滅させるなど、性悪な魔族の王として語られる。


「嘘?! 本物なの?」

『本物に決まっているだろう。とはいえ、人間とまともに会話するのは八百年ぶりだからな。さすがに魔術師であるお前たちにとっても長い時間か、八百年は』


 魔術師の寿命は普通の人間と同じだが、練金薬や魔術によって若さを保ち、寿命を伸ばすことができる。見た目は二十代でも、その実八十歳を越えている、という話はよくあった。


 だが、そんな魔術師たちでも魔王ほどの領域になると話は違った。何しろ普通の魔族でも百年二百年と生き続けるのに、それ以上の時を重ねている魔王には敵わない。


『この神殿に人が来るのも久しぶりだな。で、お前たちは私と取引しに来たのか?』

「いや、取引という訳では」

「ただ地上に出たいだけよ」


 ハインリッヒとセラフィーナは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。魔王がどういう存在なのか、二人はよく知っているからだ。


『何だつまらない。取引ではないのか。よし、ならば神殿の上にある土を全て消し去ってやろう。そうすれば地上までの穴が開くからな』

「えっ?」

「ちょっ、待っ!! 待って、待ってください!」


 ハインリッヒとセラフィーナの顔から血の気が引く。数百メートルにも積み重なった土砂程度なら簡単に消せるというのは、嘘ではないだろう。二人には教養としてハイロードについても勉強していたので、その力がもたらす結果については想像できた。


『──フッ。ハハハハハッ! 冗談だ。お前たちは下等だが、表情の豊かさは私の眷属どもよりも多彩で、実に良いな』

「……っ」


 笑えないジョークだった。ハイロードは程度の差こそあれ人間を見下しているといわれているが、それが純然たる事実であることをハインリッヒとセラフィーナは思い知らされた。


『やはり人間どもで遊ぶのが一番だな。最近は領地でバカな眷属どもをおもちゃにしていたが、お前たちの世界への興味がまた湧いてきた』


 ハインリッヒとセラフィーナは背中に氷の剣を突き立てられたような感覚を覚えた。どうやら自分たちの一投足が魔族の王の歓心を買ってしまったらしい。


 再び二人の顔がひきつったので、リミルスの石像はまた軽く笑い声を立てた。


『フフ。そんな顔をするな。何も国を滅ぼしてやろうとか、疫病を振り撒いてやろうとか、そんなことは考えていない。ただお前たちに頼みたいことがあるだけだ』


 ハインリッヒとセラフィーナは視線を交わす。状況を鑑みるに、拒否権のようなものは無いらしい。〝頼み事〟がどんなものなのかは分からないが、自分たちにできる範囲のことであってほしいと二人は祈った。


「……頼み事って、何」


 質問をしたのはセラフィーナだった。


『ちょっとしたことだ。お前たちは〝アーティファクト〟について知っているか?』

「魔術儀式の材料のことか?」

「魔力を帯びた物品、呪体、その他いろいろ。それが何か?」

『私はアーティファクトを集めているのだ。お前たちの言葉で言えば蒐集家しゅうしゅうかだな』


 自慢げな口振りが鼻につく。ハインリッヒとセラフィーナは同じ感想を抱いたが、取りあえずは黙ってリミルスの話を聞いていた。


「魔族の王がガラクタ集めに執心しているなんてね」

『言葉に気を付けろ。魔術師の女。だがまあ気の強い女は嫌いじゃない。私の眷属はどいつもこいつも従順だからな』

「……趣味悪」


 セラフィーナは毒舌だった。


「セラフィーナ嬢、変に口答えすると……」

『まあ、良い。どちらにせよお前たち以外に頼める相手はいないしな。で、本題だが……』


 リミルスは少しだけ改まった、正確に言うと〝高次元存在らしい〟威厳が多分に含まれた声音で宣告した。


『お前たちには私の使徒になってもらい、私に代わってアーティファクトを集めてもらう』


 

 


 


 

 


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