第25話 第三層Ⅱ

「来るぞ……!」


 ヴェノムエンペラーが尾を高く振り上げた。その巨体が動くだけで空気が振動し、周囲の地面が揺れる。まるでその存在そのものが、周囲を威圧するかのようだった。その尾が放つ猛毒の一撃は、まともに受ければ命取りになると確信できた。


「フィオナ、援護を頼む!」


「わかってる!」


 フィオナが素早く杖を掲げ、呪文の詠唱を始めた。彼女の周囲に魔力の波紋が広がり、杖の先に淡い光が集まっていく。その集中した姿に、俺は一瞬だけ安心を覚えたが、それも束の間だった。


 目の前のヴェノムエンペラーが尾を引き絞り、狙いを定めるような動きを見せる。俺はその動きを目に焼き付け、呼吸を整えながら瞬間的に体を緊張させた。


「……来る!」


 地を裂くような音と共に、ヴェノムエンペラーの尾が猛スピードで振り下ろされる。その動きには迷いがなく、まるで獲物を仕留めることだけに集中しているかのようだった。


「リインフォース!」


 俺はその瞬間、自らに身体強化魔法をかけた。全身を駆け巡る魔力が筋肉を限界以上に引き出し、視界が研ぎ澄まされていく。時間が一瞬引き伸ばされたように感じられ、迫り来る尾の軌道がはっきりと見えた。


 咄嗟に足を踏み込み、その尾の動きを見極めて体を大きくひねりながら避けた。毒霧が尾の衝撃で辺りに散布されるが、今はそれに気を取られる余裕はない。尾が地面に叩きつけられた瞬間、俺は剣を振り上げ、ヴェノムエンペラーの甲殻に狙いを定める。


「これで終わりだ!」


 剣が甲殻に直撃し、鈍い音を伴いながらその硬い装甲を貫いた。紫色の体液が飛び散り、ヴェノムエンペラーは苦しげな唸り声を上げる。その巨大な体が一瞬怯んだのを見て、俺は確かな手応えを感じた。


 だが、その感覚はすぐに絶望へと変わる。剣が作り出した深い傷口から、紫色の液体が滲み出るのを見ていた俺の目の前で、その傷がゆっくりと閉じていった。自己再生能力が発動し、まるで先ほどの攻撃がなかったかのように傷が消えていく。


「なんだと……!? こんなことが……!」


 驚きで体が硬直し、思考が一瞬止まる。その隙をつくように、ヴェノムエンペラーの尾が再び高く持ち上げられる。その巨体の動きが生み出す風圧だけでも、立っているのがやっとだった。


「ヨウマ、早く後退して!まだ勝てない!」


「フレイムスパーク!!」


 フィオナの鋭い声が俺を現実に引き戻した。迷っている暇はない。ヴェノムエンペラーが魔法に気を取られているうちに、俺は歯を食いしばりながらフィオナの方へ飛び退き、彼女の立つ位置まで距離を取った。


 その間にもヴェノムエンペラーの毒霧が広がり、視界を奪うように辺りを覆っていく。息を吸うだけで喉が焼けるような感覚に襲われ、額には冷や汗が滲む。


「このままじゃジリ貧だ……!突破口を見つけないと!」


 俺は剣を握る手に力を込めながら、周囲の状況を必死に確認した。フィオナもまた、杖を握りしめながら魔力を集中させ、次の呪文の準備を進めている。その顔には焦りが見えるが、それでも決して諦めてはいない目をしていた。


 俺たちにできることはまだあるはずだ。だが、それを見つける前に、次の猛攻が迫っていることは明らかだった。


 ヴェノムエンペラーは尾を振り上げるだけでなく、その口元を大きく開き、何かを溜め込むような動きを見せた。嫌な予感がする。


「フィオナ、奴が何か仕掛けてくる!」


「わかってる!けど……今の私の魔力じゃ決定打は無理!」


 彼女の声には焦りが混じっていたが、状況はそれ以上に切迫している。ヴェノムエンペラーの口元から放たれたのは、濃密な毒液の弾丸だった。それは霧状の毒を撒き散らしながら地面を焼き焦がし、こちらに迫ってくる。


「くそっ、避けろ!」


 俺はフィオナに叫びながら、自分も全力でその場を飛び退いた。毒液の弾丸が地面に着弾した瞬間、激しい爆発音と共に紫色の霧がさらに広がり、一帯を覆い尽くす。視界がほとんど効かなくなる中、俺はフィオナの声を頼りに彼女の方へ近づく。


「ヨウマ、どうする!?このままじゃ逃げる場所もない!」


 フィオナの声が震えているのが分かる。俺も答えを持っていなかったが、諦めるわけにはいかない。


「何か……奴の再生能力を抑える方法があるはずだ!毒霧の源を断ち切るとか……!」


 だがその考えを巡らせている間にも、ヴェノムエンペラーは容赦なく次の攻撃を仕掛けてきた。尾を振り下ろし、大地を揺るがせる衝撃と共に毒霧をさらに広げる。俺たちの足元は毒で汚染されつつあり、これ以上の後退も限界に近い。


「時間を稼ぐしかない……フィオナ、奴の注意を引く!その間に何か作戦を考えろ!」


「えっ、無茶よ!あなた一人じゃ!」


「大丈夫だ、信じろ!」


 フィオナが躊躇している間にも、俺はリインフォースの魔力を限界まで高め、全速力でヴェノムエンペラーに向かって駆け出した。視界を奪う毒霧の中、足元の不安定さを無視して突進する。


「おい、こっちだ!」


 わざと声を上げ、ヴェノムエンペラーの注意を自分に向けさせる。その巨体がこちらに向き直るのを感じ、俺はギリギリで軌道を変え、横合いから切り込む動きを見せた。剣を振り上げ、何とかその甲殻に一撃を加えようと試みるが――


「くっ……!」


 剣が甲殻を滑り、深い傷を与えられない。ヴェノムエンペラーはその巨体を揺るがしながら、毒の尾を振り払って反撃してくる。その勢いに押され、俺は一瞬体勢を崩した。


「ヨウマ!」


 フィオナの叫びと共に、彼女の杖から放たれた光の魔法が俺を守るようにヴェノムエンペラーに命中した。その一瞬の隙を突いて、俺は再び距離を取ることに成功する。


「助かった……けど、これ以上は持たない……!」


 息が上がり、足元はふらついている。ヴェノムエンペラーの猛毒と自己再生能力、そしてその巨体の圧力に対抗するためには、今の俺たちの力ではあまりに不足している。


「フィオナ……次の手がなければ、本当に全滅するぞ……!」


 フィオナは険しい表情を浮かべながら、何かを考え込んでいるようだった。だが、時間がない。ヴェノムエンペラーの次の攻撃が迫っているのを感じる。


「時間を稼ぐしかない、ヨウマ。私に少しだけ任せて!」


 フィオナが杖を握りしめ、力を振り絞るように呪文を唱え始める。俺はその背中を見ながら、再び剣を握り直し、立ちはだかる準備を整えた。


「絶対に……生き延びるぞ……!」


 俺たちの希望は薄い。しかし、そのわずかな可能性に全てを懸けるしかなかった。

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