第4話 決意

愛子が目を覚ましたのは、階段から落ちたあの日から五年後のことだった。

 病気のベッドの上で目を開けると、反射的に顔をしかめた。天井のライトが眩しかったからだ。

「愛子!」

 母だった。

 最後に会った日と比べると、ずいぶんとやつれていていたので驚いた。

 自分の手を握る手は、まるで枯れ枝のようだった。が、それよりも驚いたのは、疲れが滲み出た母よりも、窓ガラスに映る自分の姿にだった。

 六十を超えた母よりも年齢が上だと言われたとしても、誰も疑いはしなかっただろう。

 骸骨に皮を貼り付けただけのような女がそこにいるのだった。

「こ、子供は……」

 酸素マスクを外してなんとかそれだけ言うと、母は涙を溜めたまま、口に手を当て、言葉を失った。

 それですべてを悟った。

 五年という歳月だけでなく、愛子は子供までも失ったのだった。


「ごめんね……愛子」


 母は何度もそう繰り返した。

 理由を聞くと、意識不明の愛子に代わって成年後見人となり、夫との離婚届にサインしたからだそうだ。

 正直、この時の愛子は「なんだ、そんなことか」と思っていた。

 母を責めるつもりなど毛頭ない。

 むしろそんな煩わしいことを押し付けてしまい申し訳ない気持ちで一杯だ。

「か、母さん……気にしないで……」

「でも……浮気してたのは向こうなのに……母さん……離婚届にサインしちゃって……」

「ど、どうせ、あんなクズ夫とは別れつもりだったんだから」

 母が笑顔を見せてくれることはなかった。

 それどころかどんどん元気がなくなっていき、愛子がようやく普通の生活に戻れるようになったのを見届けるように、母は亡くなってしまったのだった。

 母は最後まで「ごめんね……」と繰り返していた。

 弔問客がほとんど来ない葬儀で愛子は自分を責めた。

「私のせいだ……私が苦労をかけたばっかりに……」

 そして愛子は失意のまま、母が住んでいたアパートに向かった。

 遺品整理をするためだ。

「嘘……」

 そこで驚愕な光景を目にすることになる。

 部屋には家具が一つもなく、座布団とつぎはぎだらけの布団があるだけだったのだ。

 近所の人に聞いたら、母は愛子の治療費を捻出するために消費者金融から金を借りていて、酷い取り立てにあっていたそうだ。

(私の貯金は……それにお母さんにも多少の蓄えはあったはずなのに……)

 不審げに思っていたら、押し入れの中の日記を読んで合点がいった。

 夫は財産などないと言い張り、慰謝料の支払いは拒否したこと、むしろ不貞をしていたのは愛子の方だと主張して、母が貯めていた貯金などを奪っていったことが書かれていたのだった。

 母は必死に抵抗し、探偵などに依頼するなどをしたようだが、愛子の治療費などもかさんてしまい、次第に資金がついて戦えなくなってしまったようだった。

 母の無念さが綴れていた日記の文字は、震えていた。ページのあちこちには、涙で濡れてヨレた跡があった。


 愛子はささくれだった畳の上に膝をつくと、嗚咽を漏らしながら泣き崩れた。


 どれだけそうしていただろうか。涙が枯れたころには、夜が明けていた。


 そして藍子は決意したのだった。


(あの男だけは、絶対に許さない!)


 愛子は母が残した唯一の遺品を胸に抱きしめた。


だけは、どんな手を使ってでも地獄に落としてやる)


 覚悟を決めてからの愛子は無駄がなかった。

 まず母親の名前で、英介宛に愛子が死亡したことを知らせる葉書を出した。


 きっとあの男は気にも止めないだろう。

 だが、これからやる復讐には必要なことだった。


(あのクズ夫と結婚していた坂上愛子は死んだんだ)


 何より、これは宣戦布告であり、決意表明であり、遺書でもあるのだった。


 だから葉書の隅にこう書いておいた。


「どうか地獄に堕ちてください」


 涙を拭い、母の遺影に手を合わせると、グッと唇を噛み締める。

 気合を入れるために自らの両頬を叩いた。

 頬の痛みが消えたころ、その目には覚悟が宿っていた。


 整形をして見た目を変え、名前を変え、探偵に依頼をして英介がいる会社を突き止めると、派遣社員として潜り込んだ。


 すべては英介を地獄に叩き堕とすため、愛子は「横山美優」として、復讐の道へと足を踏み出すのだった。

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