第3話 過去

愛子は夫が浮気していることに気がついていた。


 夫のスマートフォンに女からのメッセージを見つけた時、ワイシャツに女ものの香水の匂いついていた時、寝言で他の女の名前を呼んだ時──その度に怒りに打ち震え、情けなさに膝から崩れ落ちた。

 が、離婚を切り出すことができなかったのは、ちょうど時を同じくして、妊娠がわかったからだ。

 シングルマザーになることへの不安はもちろんだったが、何より子供ができたことを告げれば、夫の女遊びはなくなるだろうと一縷いちるの望みにすがってみたからだ。


 ところが、だ。


 妊娠を告げると、夫は喜んでくれるどころか、露骨に迷惑そうな顔をした。それだけでなく、ナイフのように尖った言葉を、事もなげに言い放ち、身重の愛子の心をえぐったのだった。


《堕ろせよ》


 これならまだ、殴られた方がマシだった。


《俺は子供なんていらないからな》


 目の前が真っ暗になり、立っていられなかった。

 吐き気を覚えたのは、きっと妊娠したからだけでなかったはずだ。


 その日以降、夫の態度は目に見えて豹変した。

 これまでも決して優しくはなかったが、朝帰りすることは当たり前になり、ついには暴力を振るうようになったのだ。


《レスだなんだと騒ぐから抱いてやったのに! 妊娠なんかしやがって!》


 さすがにここまで露骨に拒否されたのなら、一緒に暮らし続ける理由はない。


 愛子は離婚を決意した。


 だが、離婚届けを突きつける前にやらなければならないことがあった。

 モラハラ、DV、そして浮気を決定づける証拠集めだ。

 プロに依頼しようかと思ったが、何せの愛子はこれからシングルマザーになるのは決定している。

 出産に育児を控えているため、先立つものが必要だ。

 事情を聞いた母からは、「いつでも戻っておいで」とは言ってくれていた。心強くはあったものの、女手一つで育てくれた母もまた生活に余裕があるわけではなかった。

 だから確実に慰謝料は取れるだろうが、費用は抑えられるに越したことはない。

 何より、このころにはもう夫は浮気していることなど隠そうともしないどころか、愛子に見せつけているのかと疑いたくもなるほどだった。だから証拠を集めるのは簡単だった。


(夫を尾行して写真を撮ればいいだけだもんね)


 カーナビの履歴などから密会してる場所は特定し、夜中にこっそりと夫のスマートフォンに送信されるの女のメッセージは、すべて自分のところに転送されるように設定した。


(結構簡単じゃん)


 どんどん集まっていく夫の不貞の証拠に、愛子は得意げだった。

 自分を邪険に扱い、殴る蹴るを繰り返した夫に復讐できると確信していたからだ。

 だが、そのことが愛子の気持ちを緩ませた。


 この日、愛子は会社を出た夫と適度な距離を保ちつつ尾行していた。

 思惑通り、女と会っているのを歩道橋の上から撮影することに成功するのだった。

 2人は腕を組みながら歩き出す。もちろん愛子もその後を追う。


(ホテルに入るところと出るところを撮れたら完璧だね)


 そんなことを考えながら階段を降りようとしたその時だ。


 階段を踏み外してしまったのだ。


 目の前の景色がものすごい勢いで回転していき、もはや愛子にはどちらが上なのかさえ理解することができないでいた。

 ようやく回転が止まった時には、全身に痛みが走っていて、もはやどこを痛めたのかわからなかった。

 朦朧とする意識の中で、夫の姿を見た。


 笑っていた。


 同時に甲高い笑い声も聞こえた。夫の声ではない。きっと相手の女が笑っていたのだろう。


 愛子は股から生暖かいものが流れてくるのを感じながら、意識を失うのだった。

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