第2話
「こちらの誓約書にサインをお願いいたします。小坂様はそのような方には見えませんが、やはり一部の方は弊社の責任にしてくるものですから……」
誓約書を手に取って文字を眺めた。
『私は、すべて自己責任のもとで未練消化センターを利用して、俗世の未練を晴らしてまいります。仮にその結果、地獄へ行くことになったとしても、未練消化センターの責任ではございません』
小坂は署名欄に自分の名前を書いた。
「ありがとうございます。では改めて依頼内容を確認させていただきます。元奥様の秋吉和香子様と元親友の常山弘人様に極限の恐怖を与えて命を奪う、でございますね」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
川岸は立ち上がって受付横の机を引いた。通れるようになった。
「小坂様、俗世には私は行くことができません。ただ天界から監視者が常に小坂様を監視しておりますのでお気を付けください」
「監視者、ですか?」
「はい、気まぐれを起こして対象者以外の人物に危害を加えようとする方がまれにいらっしゃいます。その場合は、監視者がすぐに担当者に連絡し、その人物の亡霊をすくい上げるのです」
「その、未練を貼らせずにすくい上げられた人はどうなるんですか?」
「人間界で言う、拷問の刑に処せられます」
「拷問……」
「未練を残した人間は地獄にも天国にも行けません。閻魔様は裁くことができないので、案内人である牛頭様と馬頭様が違反者を拷問させます。拷問が終われば……」
川岸は話を中断した。目の前には真っ白で小坂の身長の倍はあろうドアがあった。
「こちらが俗世を繋ぐ扉でございます。いったんくぐるとこの扉は自動的に消えますので戻れません。未練を果たされた際は小坂さまの魂は自動的に展開に戻るようになっています」
「亡霊として俗世に戻るんですよね」
「はい、なので基本的には人間の目に触れることはできません。建物の壁をすり抜けることもできます。ただし、未練を残したものだけには姿を見せることができます」
「どうやって?」
「『見えろ』と念じてください」
「それだけ?」
「さようでございます。姿を現すときだけでなく、何か力を使いたいときは、その思いを念じていただければ実現いたします」
「本当ですか」
あまりにも簡単すぎる。小坂は扉から一歩退いた。川岸は横で笑みを浮かべて小坂を見つめている。信頼してください、と表情で訴えているように見えた。
「他に何か質問はございませんか?」
「いや、特に……」
扉はゆっくりと開き、わずかな間から直視できないほど強烈な白い光が差し込んできた。
「まっすぐお進みください」
川岸に促され、小坂は目を細め、両手で光を遮るように目を囲いながら扉へと向かっていった。振り返ると川岸が深々と頭を下げている。もう一度前方を見ると凹凸も何もなく真っ白で何も見えない。すぐに自分の手さえも白い光に包まれてしまった。
目を開けると、先ほどの白い扉とは全く違う、茶色のドアがあった。古そうに見えたのは日が暮れて薄暗くなっていたかもしれない。このドアは見覚えがあった。見覚えどころか慣れ親しんでいる。ここは親友の弘人のアパートだった。社会人になって一人暮らしを始めてからもしょっちゅう弘人の自宅に遊びに行ったものだった。
「すり抜けたい」
小坂は念じながらドアに手をかざすと、そのまま腕が貫通していく。川岸の言っていたことは嘘ではなかった。そのまま身体を潜り込ませると、完全に部屋に入ることができた。
鼓膜を震わせたのは嬌声だった。何度も聞いてきた喘ぎ声。通路を進み、ワンルームが見えてくると、ベッドの上で男と女が裸になって絡み合っていた。紛れもなく弘人と和香子だった。
「弘くん、だ、大好き」
「俺も」
目の前に小坂が立っていることにも気づかず、二人は濃厚な接吻をかわし、舌を絡め合っている。いつのまにか食いしばり、拳を強く握りしめていた。生きていたら爪が食い込んで血が流れていたかもしれない。
小坂は大きく息を吐いて、ユニットバスの鏡に向かって立った。鏡には自分の姿が映っていない。「見えろ」と一度小さく呟いた。弘人と和香子はベッドの軋みや喘ぎ声で小坂の声にも気づいていない。徐々に自分の全身が濃くなってきた。首元にはタオルの跡がある。恐怖を与えるにはちょうど良い。自殺をしたときのスーツを身にまとっていた。小坂はもう一度リビングに戻り、二人のいるベッドの前に立った。二人は後背位で交わっており、小坂に背中を向けていた。手を伸ばし、へこへこと腰を振って快感を得ている弘人の肩に置いた。
「うわっ、冷たっ」
弘人は触れた肩を激しく擦り、小坂の方を振り返った。
「うわああっ」
和香子の身体を突き飛ばして後ろの壁に激突した。
「痛いって、急に何すんのよ」
怒気を孕んだ声は小坂の姿を見てすぐにひっくり返った。
「いやあああああああ、なんでなんでっ」
素っ裸の二人が頬でもくり抜かれたようにげっそりし、小坂は笑いそうになった。
「お前らのことが憎くて未練が残ったんでな、殺しに来た」
毛布で体を隠している和香子ににじり寄る。俺だけの体だったはず。俺だけの和香子だったはず。
「和香子、お前、裏切りやがって。俺が死んでも悲しくなかったんだな。むしろ死んだ方が都合が良かったんだな」
和香子に額を押し付けたとたん、蟹のように口から泡をこぼし、白目を晒して意識がなくなった。まだ何も力を加えていない。死んでしまうのは早すぎる。和香子の胸に手を当てると鼓動は感じた。恐ろしさのあまり気絶しただけだった。
ならば、と小坂は弘人に顔を向けた。
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