未練消化センター
佐々井 サイジ
第1話
地面も空も使い古した雑巾のような色をしていた。無機質で物という物がないところに長い台があり、たった三つだけの受付窓口に長蛇の列ができている。小坂はその構成員の一人だったが、先頭に並んでいた女が受付に向かったため、もう間もなく列から離れるはずだった。列は短くなるどころか新たに並ぶ人の方が多いおかげで長くなる一方だった。前に並んでいた人が窓口に向かったとき、小坂は頭を回すと首の中から泡が弾けた音がした。顧客はもっと多いのだから窓口を増やすべきだろう。
「次の方、どうぞ」
ようやく呼ばれた。十年、二十年くらい待ったような気がする。受付に立つ男は坊主頭で右のこめかみに目立つほくろがあった。華奢な体つきだが身長は小坂より頭一つ分大きい。ほとんど開いていないほど目じりを細めて笑う男は行儀よく頭を下げた。つられて小坂も同じ角度まで頭を下げる。
「お待たせいたしました。未練消化センターの川岸です」
「よろしくお願いします」
「今回はお亡くなりになられたということで、お悔やみ申し上げます」
「いや、まあ」
亡くなった張本人に哀悼の意を表されると、どのように反応してよいかわかりかねた。小坂は気恥ずかしくなり、つむじをぽりぽりと掻いた。
「こちらに来られたということはお亡くなりになっても成仏できなかった、ということでよろしいでしょうか?」
「ああ、はい。あの、閻魔大王に『あなたはまだ俗世に未練が残っていて地獄へも極楽へも行けません』って言われて、ここを紹介されました」
閻魔大王は未練を完全になくしてから再び罪を裁き、極楽か地獄か行き先を決めると言っていた。
「なるほど、閻魔様が。かしこまりました。それではこれから具体的にお話をおうかがいさせていただきますね。まず、小坂様の抱えておられる未練をお話しいただけますか?」
小坂は口を開けるがなかなか言葉が出てこなかった。怒りや悲しみが充満しすぎて突っかかっているのかもしれない。首元にタオルのかゆみを思い出し、指でさすった。
「初対面の者におっしゃりにくいですよね。お話しいただいた内容は個人情報として厳密に管理し、すべてが終わり次第、処理いたしますので、どうぞご安心ください」
川口の口は緩やかな弧を描いていた。無条件で信頼してしまう柔和さだった。この人が仏なのではないか。
「結婚して二年目に妻を親友に取られて……。二人が一生引きずってしまえと思って、あともう嫉妬で狂っちゃって楽になりたくて自殺しました。でも閻魔大王が僕にみせた鏡には二人が幸せそうに同棲しているのが見えて……。二人を殺したいんです」
「なるほど、お辛い思いをされたんですね。一人で抱え込まれて大変でしたね」
川岸の言葉はとても温かかった。それは精神的なものだけではなく、本当に、身体の奥底がじんわりと熱くなってきた。誰にも言われたことが無かった。誰も寄り添ってくれなかった。だから、俺は……。
「小坂様の元恋人と元親友を呪い殺したい、ご要望はそちらでよろしいですか?」
「はい……」
川岸は朗らかな笑顔を崩していなかったが、目線が下を向き、次の言葉がなかなか出てこなくなった。小坂は「もしかして無理なんですか?」と沈黙が耐え切れずに言った。
「小坂様の未練は、人を死に追いやるということでございます。未練消化センターではそちらも可能でございますが、一つ、ご理解いただかなければならないことがございます」
「それは?」
「再び閻魔様に裁かれる際、殺人の罪が発生するので地獄行きになる可能性が高くなることです」
笑みを作っていた口の端はゆっくりと垂れてきて、視線が鋭くなった。
「地獄……」
「私はお客様の未練をなくすことが仕事でございます。その先の進路についてどうこう申し上げる権利はございません。ですが、やはり地獄となると辛いでは済まされない日々が待ち受けています」
「ど、どんな……」
「地獄にも数種類ございますが、殺人を犯した方は、獄卒と呼ばれる鬼たちに四肢をちぎられたり、全身を切り刻まれたりします。罪人同士の殺し合いもさせられます。それが一兆年以上続くんです」
小坂は唾を飲んだ。和香子と弘人を殺せば、俺は地獄行きとなり、実質無限の苦痛を味わうことになる、かもしれない。
「もちろん殺人といっても地獄に行かないケースもございます。いわゆる正当防衛や、その人を殺さなければ多数の死傷者が出てしまう場合でございます。また、誰かのために殺めてしまうのも許される場合がございます」
「僕の場合、どうなんですか? 全く罪のない人を殺すわけではありません。和香子と弘人は僕を裏切りました。僕を死に追いやりました」
「私は閻魔様ではございませんので、大変申し訳ございませんがわかりかねますね。ただ過去の事例から見ると、極楽に行かれる方もいますし、地獄に行かれる方もいます」
地獄への恐怖が頭をもたげた。殺すことは諦めて二人の尻を蹴り上げるくらいにしておこうか。だが、鏡に映った和香子と弘人が見つめ合って抱き合っている光景が脳裏に浮かんだ。いつの間にか口内の肉を強く噛んで血の味がした。
「それでいいです、地獄にいっても。なので、二人を殺せるようにお願いします」
「承知しました……」
川岸は机の引き出しから一枚の書類を取り出して小坂の手元に追いた。
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