第50話
「雪溪?!どこか」
「どうしたの?!」
駆け寄るさっちゃんと楠木さんになんとかして返事しようと思うのだけれど、身体が言うことをきかない。さっちゃんは途端に半泣きになって私の肩を揺する。
「雪花!雪花ぁっお返事して!」
(…あれ?)
たぶん肩を揺すられている。はずなんだけど。
(なんか変だな?)
感覚が鈍い。さっちゃんの泣き声も、どこか靄がかる。
その反面身体は軽い。すぐに動き回れそうだ。誰かが私を狙ったのではと思って起き上がって後ろを振り返ってみれば、先ほどの男女が流し目でちらりとこちらを見た。
-ふうん。雪花ですって。
-邪魔しやがって。あと少しだったのに。
その口から出る言葉がやけに明瞭に聞き取れるのである。少し離れたはずなのに、やっぱりおかしいな。
と思っていたら、次の言葉に背筋が凍った。
-そうだ、殺す前にあのチビの名を聞き出せば良かった。そうすれば呪詛も使えたのに。
-確かに。でもあの腑抜けのこと、これでもう高天原にあの御子神を連れてこようとはしないでしょう。
そうしてその二人は宴の中に姿をくらましてしまった。
(え?)
私、殺されたらしい。あのふたりの話によると。
(ええ?)
半信半疑で振り返ると、楠木さんとさっちゃんが少し下を見て焦っている。なので私も同じように視線を下に向ける。と、そこには私らしき女が、楠木さんの腕の中で動かなくなっていた。
これが私か。へえー。鏡で見たのともなんだかちょっと違うような。
って。
「ええ〜っほんとに死んじゃったの私?!」
「楠木さん楠木さんっ」
「さっちゃん〜気づいてぇー私なんでかここにいるっ!」
が、楠木さんはただ青い顔をして私の身体を抱きしめ、さっちゃんはわんわん泣き出してしまった。
「私ここに居るよ、さっちゃん、さっちゃん。泣かないで」
やっぱり聞こえないみたいだ。さっちゃんを抱きしめようと腕を伸ばしてみるけれど、触れている気がしない。
そして。
(あ、あれ、なんだか…)
流されている感覚がして自分の身体に必死でしがみつく。けれどするすると滑って、どうしてもその場に留まっていられない。風に吹かれる綿毛のような、川に流される木の葉のような。自分がとても小さく感じられ、大きなうねりに呑み込まれていく。
「やだ、こんなの!さっちゃん!さっちゃん!」
ズブズブと、全身が何かに沈んでいく。底のない池に落ちたみたいだ。いや、池ならまだ浮き上がれるのに。
どれだけもがいても、全然元の方向へ戻れない。
「そんな…さっちゃん、こんな形でお別れなんて」
涙が頬を伝うのは、暖かい。
あ、これで終わりなんだ。
あっけないな。
「雪花、聞こえるか。」
「ふぐっ…ひぐっ…ふぇ?…ってせせせ栴様?!」
「分かるか。まだ自我は崩れていないな。」
子猫のように襟を掴まれた状態で、ズボッと引き上げられて急に寒くなる。
「さ、寒いぃ〜」
「あ、そうか。」
栴様がヒョイと片手を上げて下ろすと、その手には衣が握られていた。
「被って、ここで待っていろ。」
「ひいぃぃー置いていかないで!助けてくださいぃぃっ」
「それは断る。」
「ぎゃぁぁぁあああー!ご主人様ぁぁぁぁあ!助けてーーー!!うわーーん!栴様がぁぁー!意地悪言うーーー!!」
「騒ぐな、見つかると面倒なんだ。」
「ふぇ…ひぐっ…ひゃい…」
助けてもらえるんだかもらえないんだかさっぱり分からず涙と鼻水まみれになって、しかもそれが一瞬で凍るほどに寒いという過酷な状況に耐え、必死に返事を絞り出す。すると栴様はもう一枚御衣を取り出して、ぐるぐると私の頭を覆って「よし。」と頷いた。
そして。
そして、瞬きのうちに姿を消してしまった。
「ふぐぇ…やっぱり、置いてくんだぁ…」
ビュウビュウと吹き荒ぶ風の音が聞こえる。
不思議なことに、御衣に包まれてからは寒さも遠のいて、ただ外の音と心臓の音と自分の呼吸の音とを聞くだけで時間が過ぎる。
ほんの少しの間だったのかもしれない。けれど、とてつもなく長く感じられて、このまま、いつまでも誰も来なかったらどうしようと底知れない不安に駆られた。
栴様は、騒がずに待っていろと言った。
(いつまで)
いつまで、ここでこうしていればいいんだろう。
(気が、狂いそう)
ふと、風の音が遠くなった。
「おうイ」
「へゃい?」
身体中こわばってしまったのか思うように動かないのだけれど、誰かの声が聞こえる。
「お、聞こえてるナ。顔ヲ出せ。」
「は…ぉわ!?!」
恐る恐るぐるぐる巻きの隙間から外を伺うと、異形の何かがこちらを覗き込んできた。
黒い。黒い何かだ。手足も目鼻も定かでない、けれどこの黒い塊が喋っているらしい。時折り周囲を稲妻が走って、ピリピリと空気が裂かれるような音がする。
呆然として固まっていると、黒い塊はなにやら縦に横に伸びたり縮んだりして、真ん中辺りに口がにゅっと現れた。
「口ガあルと馴染みやすイ?」
喋るさまに確かにそうだと感じて二度ほど頷く。
「ヨーシ。お前、ファだろ?」
「あ!!あ…あの…!!」
「今度ハお前が黄泉路ニきたンダなァ。」
「黄泉路?!は!そうか私死んだんだった!!」
目の前の黒ピリピリは、なんと昔見たあの鬼だという。なんだか記憶より数段小さく丸いけど。
黒ピリピリは口角を思い切り上げて高笑いをした。
「イイもの見せテやろウ。」
そう言うと、黒ピリピリはニュッと一本の腕を出して地面に向けて円を描く。すると不思議なことに描いた円がぐるぐると渦を巻いて鏡のようになった。鏡の中に、何かが見える。
「さっちゃん!」
鏡の中で、さっちゃんは楠木さんを見上げている。楠木さんは私の身体をそっと横にしてから立ち上がった。向かいに居るのは栴様だ。
『今すぐ連れていってほしい、私の妻だ、私が必ず連れ戻す!』
『では楠木殿は御身のためこちらを。姫御子、この結界の中で待たれよ。外に出てはなりません、よろしいですね。』
さっちゃんは涙を堪えて健気に頷く。
(楠木さんが、助けに来てくれる!)
一筋の希望が見えて、身体の強張りまで少し和らぐ。あと少し、もう少しだ。がんばろう。
が、栴様は少し黙りこんでから非情な一言を告げた。
『楠木殿では無理だ。』
『え?!』
栴様から渡された御衣を羽織りかけていた楠木さんは栴様に詰めよった。
『なぜ?!』
『楠木殿と雪花の間に確たる縁が無い。』
『縁?!そんなの、どうして』
『理が無いことには、黄泉帰りの間にはぐれる。』
『そんな』
楠木さんは打ちひしがれて膝を折った。今抱いた希望が秒で砕かれた。そんな理由ってある?
黒ピリピリがケケケと笑う。
「ご親切ダな。オう、お前ラ一発やっとキャ良かっタのニ。」
「…」
そうか、男女の仲になっておけば助かったのか。
「そんなに大事ですか?夫婦事って…」
「そこも含めてテ、ってノがキモだナ。」
「含めて?」
訳が分からないと首を傾げた時だった。
『幸が行く。』
「さっちゃん?!」
『栴の宰相様、雪花のところに連れていってください。雪花は幸が助けにくるのを待ってます。』
『幸!そんなことお前にさせられないっ』
「さっちゃん!!あ、あ、危ないんじゃ」
「危ナくハナイだろォ、そのまんま黄泉ノ民ニなれバいいんダ。」
「それ死ぬってことでしょう!ダメダメ駄目ー!さっちゃん来ちゃ駄目!!」
「もともトコイツが生まれタラ黄泉に貰ウ約束ダッタんダゾ。それをファ、オ前がチマチま世話するカラ、一向ニ来ネぇんダモノ。」
「え、そうだったんですか…でででもさっちゃん連れていかれちゃったら私…っ」
「ファも黄泉に来れバいいだロウ。」
「ほ…ふぐぇ?」
黒ピリピリと話している間に、さっちゃんは楠木さんから御衣を奪い取り、栴様の前に立った。
「さっちゃん…」
栴様はさっちゃんを見下ろす。
『黄泉路には、姫御子の御目にそぐわないものもありましょう。』
『恐くありません、幸はやり遂げてみせます。』
栴様は、少しの間さっちゃんをじっと見ていた。
『そのお言葉、お忘れなきよう。』
『栴殿!』
楠木さんは栴様の袖を掴んだ。
『楠木殿、お気持ちは察するが急がねば機を逸する。』
『娘を…妻を頼む…!貴方だけが頼りだ』
ちょっと間があった。
多分だけど。
恐らくだけど。
栴様のキョトンとした顔が思い浮かんだ。
『ここを離れないように。』
楠木さんにそう言い残して、栴様はさっちゃんを連れて姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます