第40話
さっき通った景色の中を戻りながら、沈黙に耐えきれず呟く。
「え、私死ぬの…?」
「死なない、はずだけど…娘娘は主上とお親しいから、そんな諍いの元になるような真似はなさらないはず」
「じゃあ楠木さん死ぬ…?」
「それも無い…と思うんだけど…なんでこんなことに?」
困惑しつつも、楠木さんは冷静に考えを巡らせているようだった。
さっちゃんは車の外を眺めながら『くも』と呟き。
のんびりとあくびをした。
「え、さっちゃん寝れるの…?いま?」
この状況、分かってるよね多分。うん、さっちゃん賢いもんね。西王母娘娘に呼び出されて崑崙丘に戻っているところですよ?
さっちゃんはむにゃむにゃとお口を動かして、ふにゃりと微笑んだ。
「うん。しゃっちゃんねれるの。」
「そう…さっちゃん、いい子ね…。」
「うん、しゃっちゃんいいこ…」
すやあ。
と聞こえてきそうなほどに滑らかに、さっちゃんは眠りについた。
こんなに寝つきが良い子はそうそう居ないよ。
「えー、寝てるの?」
「あ、申し訳ございませ…」
すやすやと眠るさっちゃん。
を、抱く楠木さん。
の隣にいる私。
そして私たちは今。
なんと。
七天女に囲まれている。
七天女というのは西王母娘娘の娘御様方のことだ。五柱しか居ないので、全員じゃないみたいだけど。
「ただの赤ん坊じゃない。」
「鳳凰が見たのって、本当にこの子なの?」
「詩が詠えるって話だけど。寝てちゃわかんないわねぇ。」
誰かが断りもなくさっちゃんのほっぺをツンツンとつつく。
(あっ!うぅ…さっちゃんごめん、何も言えないで…)
七天女たちの御手が汚いということはないだろうけれど、力加減がちょっと。もうちょっと丁寧に扱って欲しい。
んだけど、そんなこと言えるわけもなく。
「やだぁ、すべすべ!」
「え、私も触りたい。」
「私も私も!きゃーもちもち!」
「ぷにぷにしてるぅ」
ちょっとさっちゃんが眉間を寄せる。楠木さんの腕の中にちょっと顔を隠して、低く呟いた。
「ない。」
「何か言った?」
「何か喋ったわよ、今。」
「もうちょっと突つけば起きるんじゃないの?」
「そうねぇ、えいえい」
「あはは、気持ちいい〜」
「ないよっていってゆでしょ!」
七天女は目を丸くして手を引っ込めた。ふだん諭されたり注意されることなんてないんだろうお姫様たちには、さぞや驚きの一瞬だったのだろう。
(なんてこったい…七天女様を怒鳴りつけ…)
さっちゃん、ご機嫌が絶妙に悪い。
今まで寝ているところを起こすことがなかったので、寝不足のさっちゃんを初めて見た。さっちゃんも寝不足だと調子が狂うのか。当たり前だよな、赤ん坊だもの。内心では、ちょっかいをかけた方が悪いのが当然だと思うんだけれども。
何も言えない私。情けない。
「ご無礼を申し訳ありません、まだ眠たいようで。どうかそっとしておいていただけますと、幸いです。」
(あ、楠木さん意外とはっきり言ってくれた。)
少しほっとしつつ、そろりと顔をあげて七天女の反応を伺う。そんなに不快だったわけではなかったらしく、ケロッとしている。
「だってお母様が見たいって呼んだのに、寝てちゃ意味ないじゃない。」
「娘娘が、うちの娘をですか?」
「そうよ。『大変優れた幼神にお目通りいたしました』って鳳凰が言うから、お母様も見たいから連れ戻してこいってなったの。聞いてないの?」
「はあ、なにぶん取り急ぎ伺いましたもので」
楠木さんとちらりと目線を交わす。なるほど、さっちゃんと遊んでいた(?)あの鳳凰か。
七天女の一柱が眉をしかめる。
「使えない伝令ねぇ。」
「そうね。差し替えたほうがいいんじゃない。」
「そうねぇ、役にたたないんじゃ、居てもしょうがないしね。」
「うふふ」
それくらいで配置換えされてしまうのか、と少し残念に思った。けれど楠木さんも何も言わないし、むしろ聞いてなさそうなくらい反応がない。左遷の話をしながらご機嫌そうな七天女に『それほどのことでも』なんて言う勇気も無く、そのまま黙って座っていることにした。
(伝令の人は確かに言葉足らずではあったかもしれないけれど、今思えば礼儀正しく対応してくれたんだけどな。)
むずむずするのか、さっちゃんは目を擦っている。髪をそっと撫でると、ちょっと文句を言いながら、さっちゃんはもう一度目を閉じた。
まだ寝るんだ。そうだよね、眠いよね。
「撫でるのはいいの?」
「え?あ、はい、優しくなら、嫌がらないかも」
私のしどろもどろな返答に、七天女の一柱がソワソワと袖を伸ばした。
「こう?」
その一柱は、さっきとは全然違う柔らかい手つきでさっちゃんの頭を撫でる。さっちゃんは『ん?』と言って少し目を開けた。けれど今度は許してあげることにしたらしい、そのまままた目を閉じる。
その一柱は、ふわりと微笑んだ。
「かわいい。」
「でも寝ちゃうわよ?」
「もういいじゃない、好きにさせてやりましょうよ。」
七天女の中にもまともな女神がいるんだなと、妙に感動した。
「寝ておるのか。」
「は…誠に申し訳ございません、まだ幼い身ゆえ」
「よいよい。
「お母様、気持ちいいのよ、ここ。」
「ねぇ触ってみる?ぷにぷにしてるの。」
「ほぉ、これは聡そうな眉をしておる。して、その方は…これはこれは」
連れられていった娘娘の御座所で、娘娘は機嫌良くさっちゃんの顔を覗き込んだ。それから楠木さんを見てちょっと目を丸くした。
「岩楠の兄君であったか!お前たち、統星尊の兄神になんという態度を」
七天女たちは知らん顔をしてちょっと脇に避けた。
「これはそちらの娘御か?」
「はい、娘娘。」
「なるほど賢しいのも当然。久方振りに来られたと思ったら、お父君になられておったのだな。それが母親か?」
娘娘の視線が一瞬こちらに向けられて、全身がそばだつ。できる限り愛想よく、という楠木さんの言いつけを守るため口角をプルプル上げているのが限界で、一声も発せない。
「この娘は有難くも主上に賜った御子神でございます。これなる雪花は、我が娘の世話役です。」
「ふうん…んー?」
娘娘は何やら指をくるくると回したり振ったりしながら、少し首を捻った。
「日の卑属の末子、ではないのう。」
「はい、これはしがない私の一人娘です。」
「ふうん?岩楠の兄君と子を成すとは、意外なところへ飛んだな。」
「ふふ、仰る通りです。」
「あれ?これはどうも、おやおや。栴の宰相殿が一枚噛んどるの?」
少し顔を寄せて小声になる娘娘に、楠木さんは何も言わずにただにっこりと微笑んだ。
「よい、よい。なあるほど、それで宰相も心穏やかとみえたわけだ。うんうん、産み年にはひどく身を崩すからのぉ、見ている方も気を揉むものよ。日の系統は特に重荷だろうしの。娘御は昨年か、その前かの?」
「昨年産まれました。」
「そうか。此度はさほど寝込まずに済んでいればいいが。」
娘娘は思いやりの込もった声音で呟いた。
娘娘とご主人様は、本当に仲良しなのだろう。
心配しているのなら、と思った。
「あの、ご主人様はお元気です。」
「は?」
そういえば、ご主人様といったって誰のことだか分からない。ご主人様は何て呼ばれていたっけと慌てて言い直そうと考えていると、楠木さんが付け加えてくれた。
「雪花は、我が娘の世話役になる以前は主上にお仕えしておりまして。確かに、お産みの後もお話ができるようでいらっしゃいましたし、半身を起こしていてもお顔の色もそう悪くないようにお見受けいたしました。」
娘娘は、にっこりとして頷いた。
「そうか、そうだったか。それはなにより。…ぐふふっ宰相め嘘八百並べよって!早く帰りたいのは見え見えじゃからのー!まあ帰してやったがの!ほーっほっほっほ!」
あの後退りする栴様を見て、多分早く帰りたいんだろうなとは思っていた。楠木さんはびっくり仰天という顔だけれど。
娘娘はとても機嫌が良くなったらしく、さっきまで視界にもほぼ入ってなさそうだった私にまでにこにこと話しかけられる。
「おぬし、
「はい、趙の村におりました。」
「あ!」
横で見ていた七天女たちが私を指差して言った。
「これ、
「こんなんだったの?」
「私見てないもの、知らない。」
「私も見たわけじゃないけど。でもあとで仙女たちが言ってたのよ、あんな鶏ガラで栴の宰相様は本当によろしかったのかしらって。」
「ふうん?そんなに細くはないけど。麗華は?」
「あの子は今お取り込み中。」
「でも覚えてないわよ、きっと。麗華は大神のことしか考えてないもの。」
「ふふ、そぉね。」
「ふふ。」
あの公主様か。たしかに、私のことは覚えてないだろう。私も、初めて崑崙丘に行ったあの日とは全然変わったし。
「宰相殿の手配とな、ほぉ。」
娘娘は、また面白そうに私の顔をマジマジと眺めた。
「なんにせよ、我が天の下より御子神の世話役を出すとはめでたき事よ。おぬし、名はなんと言うたかえ?」
「そ、雪花と申します。」
「雪花か。御子神の世話役とは光栄なこと。崑崙より差し出されたからには心して務めよ、継母として御子を正しく導くように。」
「はいぃっかしこまりますた!」
なんて返事をすれば良かったのやら、全く締まらない。
「しかしどんな手を使ったのやら。あれはつくづく得体の知れん傑物よの、ほっほっほ。」
娘娘は愉快そうに笑って、さっちゃんの額を少し指先でなぞる。
「先が楽しみな御子神じゃ。また連れて来られよ。」
「有り難き御言葉、光悦に存じます。」
娘娘の御前を下がるとドッと疲れがやってきて、よろよろとしながら崑崙丘の門前に掛かる光の橋を渡った。
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