第36話
「お父様。はい、言ってごらん。」
「はい。」
「うん、そうなんだけど。お父様、だよ。はいどうぞ。」
「うん。」
「そうじゃなくて、お父様。」
「じゃなくって。」
楠木さんは、笑顔を引き攣らせて休憩にしようと言った。
(そう上手くはいかない、かぁ)
おやつを頬張るさっちゃんのほっぺは、丸くてつやつやしている。もぐもぐと動くその丸みは、無邪気な幼子の時期限定の愛らしい瞬間だ。
「これくらいなら、出来そうかなと思ったんだけど」
楠木さんは小さく溜め息をついて呟いた。
「私も正直、お父様くらいならすぐ言えるようになるかと思ってましたけど…さっちゃんにとっては言いにくいのかも。」
「あれだけ喋れるのに…?」
「あのねぇ、さっちゃんがちょっと喋れるのだって、普通に考えたらびっくり仰天モノですよ。こんな小さい子が『お父様』なんて行儀よくすらすら話し出したら、それこそ天の神様だってびっくりしちゃうって。いいのよ、さっちゃんはただでさえ可愛いんだから。にっこり笑えばみんなイチコロですよ。ねーさっちゃん、にっこり上手だもんね。」
「にっこぃ。にー。」
「あ駄目だわ可愛すぎて苦しいわ」
綺麗に上がった口角をなでなでしていると、楠木さんはぼそぼそと呟く。
「私のことを…お父様と呼びたくないだけなんじゃ…」
「そ、そんなことっ…ねぇーさっちゃん!やる時はばーんとやってみせるわよね!お父様って、言えるようになれたらいいねぇ!」
「ばぁーん。」
「ふふ…まあいいかぁ。」
楠木さんは脱力気味に笑うとさっちゃんを膝の上に乗せて、優しく話しかける。
「紗良紗、いいかい。崑崙ではね、雄大な景色が見られるよ。大地を潤す大河があって、それを辿ると崑崙の山々に行きつくんだ。『
「かわ。」
「うん。それから謁見の際に娘々がおわす瑶池には
「かぜ。」
「うん、」
それからね、と楠木さんは崑崙丘のことをたくさん教えてくれた。私もさっちゃんと一緒になってずっと聞いていた。難しい言葉が多くて時々分からなくなってしまうけれど、その点さっちゃんは大事なところをしっかり押さえているようで、都度「やま」とか「きり」とか、ちゃんと何の話をしているのかわかっていたんじゃないかしら。段々とひとつひとつの話が長くなって難しいのだけれど、さっちゃんは飽きずにじっと聞いていた。おとぎ話のように美しい詩ばかりで、私までわくわくしてしまった。
冬が来たら、この目で見に行けるのだ。
不安なことばかり考えていたけれど、崑崙丘に付き添うのが、すっかり楽しみになっていた。
そうしてわくわくしている内にあっという間に日が過ぎて、崑崙丘へ出発する朝がやってきた。
真新しい上等な衣を身にまとい。
(いや、着られているわコレ。)
あんまり上等すぎて、ねぇ。
しかも髪も顔も、やっぱり田舎の垢ぬけなさが気になってしまう。自分なりにはがんばったんだけど。
はあ、と水鏡を覗いて溜め息が出た。
「雪花、どこか具合が?」
「いーえ、なんでもないです。行きましょ。」
「そう?疲れたらすぐに言うんだよ。」
では行ってくるよ、と楠木さんは森の住民たちに告げて、私とさっちゃんを連れてひょいと後ろに一歩踏み出した。
するとそこは石畳の上だった。左右の両側を、こぼれるように咲いている薄橙の花木がずっと続く。甘くて、うっとりとする香り。
「ここ、前にも通りましたよね。」
「うん。ここは
楠木さんの後ろを歩いていくと、しばらくして薄橙の生け垣の先に白い柱が見えてきた。近づくと、そこにはたくさんの人影が集まっていた。
(う…これ全部神様かなぁ、うひゃぁ)
思い返せば、このたくさんの白い柱が並ぶのも以前見た気がする。のだけれど、前は誰もいなかったから、まるで別の場所のようだ。楠木さんに続いて柱の間を通り、人垣の後ろの端っこに収まる。
しばらくすると、ざわざわとしていたのが静かになっていった。柱のずっと先にある壇にかかる華奢な幕が、少しだけ風になびいたような気がした。すると、その場にいる誰もが深く首を垂れた。
「掛けまくも畏き
前の方で偉い感じのおじさんが何か言っている。よく分からないんだけれど、あの幕の向こう側にいるのは何とか姫様らしい。
(あれ、ご主人様じゃないのかな?まあー分かんないわ。あとで楠木さんに聞こう。)
おじさんの挨拶はちょっと長かった。欠伸が出たらどうしようと思っていたら、さっちゃんのほうが愛らしく「はぁー。」とこぼして、そのまま目を閉じて寝る体制に入った。肝の据わった幼子だわぁ。
さっちゃんはぐずるでもなくそのまま穏やかに寝息を立て始める。まあ泣いてしまうよりずっといいだろうということで抱っこしたまま話が終わるのを待った。
おじさんが静かになると、幕の中で影が動いた。どうもなんにんか居るらしく、ふわりふわりと薄い幕が揺れた。あの不思議な、ふにょふにょの動きが、どことなくご主人様の
少しずつ囁き声が戻ってくる。出立前で、神様たちもそわそわしているみたいだ。
(あ)
きょろきょろと首を動かした拍子に、横の髪が結び目からこぼれてきてしまった。今から出立だというのに、もうボロボロである。
「ひぃん…神鷹さぁん、近くにいないかなぁ。助けてぇー…」
こんなにたくさんいるのだから神鷹さんももしかしたらいるんじゃないかと思った。けれど、そんなに都合よく表れるはずもないか、と諦めて溜め息をつく。
「雪花、どうかしたのですか。」
「神鷹さぁ~ん…」
思わず涙目になってしまった。隣で楠木さんが跳ね上がったけれど、私としては大変ありがたい助け舟だった。幸い人垣の一番後ろなので、誰も気づかない様子で振り返られることもなかった。
「髪の毛落っこちてきちゃって…助けてくれませんか?」
「分かりました。」
縋る思いで髪の毛を委ねると、神鷹さんはあっという間に全部解いてぱぱっとやり直してくれた。
「ありがとうございます、ほんとに助かりましたぁー…」
ほっとして反って涙がでてきた。
「雪花、化粧が崩れています。」
「もう崩れてんですね…崩れますじゃなくってね…やっぱりもう駄目だぁ」
「道具は持っていますか」
「持ってませんん…ごめんなさいぃ…」
「次からは持ち歩きなさい。目と口を閉じて。」
「はいぃ」
神鷹さんの指先と衣の袖の端っこで、目やら頬やらこしこしとされた。すると、楠木さんが呟く。
「雪花…すごい綺麗になったよ。」
「ほんと?神鷹さん、ありがとうございます、すんごく助かりました」
「私の務めです、礼には及びません。」
「それは、どういう」
楠木さんの呟きは神鷹さんには聞こえなかったのか、「では。」と、また瞬きの間に姿を消してしまった。
楠木さんは信じられないという風に呟いた。
「雪花の頼みなら何でも聞くってこと…?」
その時、幕の中から美しい声がした。こんなに遠いのに、風に乗ってはっきりと聞こえてくる。
「虹を掛けよ、崑崙丘へ。」
やっぱりご主人様の声だ。
(懐かしいな)
ちょっと聞いただけで、幸せな気分になった。
(ご主人様、お元気そうで良かった。)
眠っているさっちゃんが眩しくないように、一番外の上衣でくるむようにして抱き抱えて、光る橋を渡った。
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