第35話

 次の日、楠木さんは用があるからと言って、朝早くからちゃんとした格好をして出かけていった。




 さっちゃんは日課の森の散策と水浴びをして、もちろん食事ももりもり食べて。それから、今日も御機嫌で木の実を集めている。

「そーふぁ。」

「はあい」

「はい、どうぞ。」

「ありがとう。この実、大好き。」

「ん、そうよ。」

「ああ゛ー!かわいいなっ!もぉー」

 木の実を、今日は数えて並べて、それから配ってくれている。私がトチの実を美味しいといったのをちゃんと覚えていて、私には橡の実を多めに分けるという賢さも併せ持っている。

「なんていい子なの、さっちゃんは。」

「うん。しゃっちゃんねぇ、そーふぁしゅきだから。」

「雪花もね!さっちゃんのこと好き!大好き!大大大好き!」

「うん、そるふぁすき。」

「そるふぁって言えたー?!」

 にこにこと喋るさっちゃんに思わず抱き着いて、ぐるぐる飛び回った。


 さっちゃんがキャッキャッと笑い声をあげているところへ、楠木さんが帰ってきた。

「楠木さん!お帰りなさい!」

「わっ…うん、戻ったよ。雪花、話があるんだけれど」

「私もあります!今ね今ね!さっちゃんがね!雪花ソルファって言えたんですよ、今!今だよ!」

 感動で前のめりに報告したところ、楠木さんは「へぇ」と目を丸くした。

「そうだ!さっちゃん、お父様って言えるかな?」

 喜び勇んで腕の中のさっちゃんを期待の眼差しで覗き込むと、さっちゃんは大変冷静な口調でこう答えた。

「おとしゃまないよ。くしゅきしゃんよ。」


 楠木さんと一緒に吹き出して、さっちゃんがちょっと口を曲げた。

「くしゅきしゃんよ。」

「そうね、ふふっ私がそう呼んでるもんね…ぶふふ」

「紗良紗にはそう認識されているのかぁ、面白いなぁ…とか言ってる場合じゃないな。いいかい、紗良紗?お父様と呼ぶんだよ。私は紗良紗の父だからね。」

「ちち?」

「そう。言ってごらん。」

「ちち。」

「さっちゃん、お父様って言えるかな。」

「うん?」

「言ってみてくれる?」

「うん。」

「さっちゃん、わざとやってる…?」

「うん。」


 笑いが止まらなくなって、さっちゃんを高く抱き上げた。

「さっちゃん、いたずらっ子さんねぇ。」

「ちゃがう、しゃっちゃんいいこ。」

「うんうん、そうね!さっちゃんはいい子!」

 可愛さのあまりに頬擦りして、ぴょこぴょこと少し跳ね回る。と、さっちゃんはまたキャッキャッと楽しそうに笑う。

「もぉーさっちゃん!かわいい!」

 この笑顔が見れるなら、私はこれからもなんだって頑張れる。ケタケタと笑うさっちゃんが両手を伸ばして私の両耳を掴む。

「いてて」

 でも構わない、ちょっとくらい痛くったって。



「紗良紗、掴んではいけない。」

 楠木さんが、さっちゃんの両手を掴んでそっと私の耳から剥がした。もちろん、手つきはとても優しい。

「雪花はすぐ傷ついてしまうんだよ、人の子だからね。」

 真顔の楠木さんに、さっちゃんは柄になく塩らしくなって、こっくりと頷いた。


「楠木さん、私はだいじょうぶで」

「紗良紗は、雪花が傷付いたら嫌だね?」

 楠木さんが、さっちゃんの顔をじっと見つめる。さっちゃんは、また何も言わずにこっくりと頷いた。

「楠木さん、そんな風に言わなくたって私はさっちゃんの側にいます。」

 あんまり驚かせてはさっちゃんが可哀そうだと、さっちゃんを抱き直した。さっちゃんはまたにっこりと笑う。


 楠木さんはふわっと優しく微笑んだ。

「紗良紗は雪花が好きだね。」

「うん。」

「紗良紗、冬が来るまでにお父様と言えるようにおなり。そうすると雪花に贈り物ができるよ。」

「おくりゅもの」

「へ?楠木さん、それ、どういう意味ですか?」

「冬の始まりに、主上から崑崙へ便りが出される。それを運ぶ正使の付き添いとして崑崙に同行できることになった。雪花も一緒にね。そのために天が紗良紗にお慶びになり、西王母娘々シーワンムーニャンニャンの御耳に届けたいと思召される段取りがあるから、その仕込みをね。」

「にゃん」

 真剣な顔をしていつもより早口にまくし立てる楠木さんの言うことを、さっちゃんもなんとか聞き取ろうと頑張っている。

「あまり日数ひかずも無いしどれだけ仕上がるか分からないけれど…紗良紗、がんばろう!」

「段取り…仕込み?どういうこと?」

 きょとんとするさっちゃんを、心もち抱き寄せる。楠木さんはさっちゃんに何をさせる気なのだ。すると楠木さんの視線は、次に私に向けられた。

「あと雪花にも、あ、雪花はそんな、覚えるとかじゃないんだけど。紗良紗の付き添いとして崑崙に入れば、雪花の生家に寄ることが出来るよ。それには正式に世話役になってもらう必要がある。八代目、正確には八代目じゃなくったって、誰かしら天津神の正妻に収まれば事足りるんだけれど、現実的に考えて私以外に居ないからそこは妥協しておくれ。それから崑崙へ行く用の衣が要るのと」

「え?は?」

「あと献上花か、何にしようかなぁ…困ったな、楠の花は地味だし季節外れだし」

「楠木さんちょっとちょっと、え、何?私は何するって」

「正式に紗良紗の世話役になってほしい。そうすれば雪花も生家の様子を見に行けるし、紗良紗もその方が喜ぶと思うんだよね。いやあ、実はずっと空座なのもどうかとは考えてたんだけどどう考えても他の天津女神には頼めないし頼みたくだってないし、もう世話役は居ないままかなとほとんど諦めていたんだけど、紗良紗がこうしてすくすく育つのを見ていると、参上はしないにしてもやはり」

「ちょっとちょっと、待って?正式な世話役って…なに?」

「ああ、そうだよね。子神が独り立ちするまで、身の回りの面倒をみたり世話をしたり、とか」

「それは今でもやってると思ってる。」

「うんうん!あとは宴の折に子の補佐をしたり、ご挨拶の手伝いをしたりとかかな」

「宴って、神様たちの?わ、私、お作法とか全然知らないんですけど」

「ああ、大丈夫大丈夫。こういっちゃなんだけど私も天津神と言ったらそうなんだけど、端くれの端っこみたいなもので誰も興味なんか無いから、私の妻になったからって気構えることないよ。崑崙にいったら最初の宴は抜けられないと思うけど、端っこで黙ってれば終わるし。」

「え、本当に?何もしなくて大丈夫なの?じゃあ…ってその前に!妻って、妻?!」

「あ、そうだよね。妻というのは妹背いもせつがいの女の方だよ。男と女が夫婦めおとになることを結縁けちえんというんだ。」

「妻がわかんないんじゃないよ!?」

「なんだ、分かっていたのかい。それでどうだろう、雪花の願いも叶えられるし、悪くない話だと思ったんだけれど…どうしても私が相手じゃ嫌だというなら断って構わないんだけれど。どうかな?」


 楠木さんはしょぼんとして首を傾げる。こちらの返答を待っているらしい。

 頭の中どうなっているんだろう、このひとは。

「だだだって、楠木さん神様じゃない!私、ド田舎の農村の娘よ?!何考えてるの、そんなの、つ、釣り合わないんじゃないの」

「そこ?やーまあ確かに私も天津神だけど、さっきも言ったけれど私は端くれの端っこだしそんな深刻に考えなくても大丈夫だよー、あはは。」

「しかも正妻って言わなかった?!正妻って、正妻ってつまり」

「妻の中でもっとも優遇される女性ということだよ、でも私は他に妻はいないからその点はあんまり意味ないかな、ごめんね。」

 ごめんね、て。

「他の妻がいれば、その女性が要望を出せば正妻の暮らしも同様に刷新されていくんだけれど。改善してほしいところがあったら、手間をかけるけれどその都度言ってもらうってことでいいかな?」

「そっか、神様もたくさん結縁しますよね。ん、でもこの場合は楠木さんに他に結縁してる人がいなくて安心した…あはは」

 女神様相手なんて、何かあっても勝てるわけがない。いびられるのは嫌だもの。

(そっか、村の領主さまだって奥様のほかにお妾さん何人か居たしな。結縁って、神様にとったらそこまで大層なことじゃないのか。)

 と思い直していたところへ、楠木さんがにこにこ笑顔で付け加える。

「そうだ、夫の所領は正妻のものでもあるから、ここは雪花の領ってことになるよ。好きに使っておくれ。」


(は?このひと何考えてんの?)

 見慣れたと思っていた楠木さんの御殿を振り返る。こじんまりとか、確かに思ってたけど。それは比羅坂の御宮に比べたらという意味であって。

「私ちょっと親の顔が見たいって言っただけで…ここまでする?」

「私にとっても助かる話なんだよ、紗良紗は他の女性じゃ嫌だろうから。ね、そうだろう紗良紗。」

「うん。」

 さっちゃん、即答だったけれど話をどこまで理解しているのか。

「さっちゃん…私、他の女神様みたいにできないと思うけど…いいのかなぁ?ほんとに?」

「うん。いーよ~。」

 さっちゃんの即答に、楠木さんと見つめ合う。


 ちょっと笑い合っている内に、肩の力が抜けた。

「そっか…じゃ、いっかぁ。」

「よかった。雪花、これからもよろしく。」

「はぁい、こちらこそよろしくお願いします。」


  こうして、私は楠木さんの妻になりましたとさ。

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