雪花、母になる
第30話
次の朝も、いつも通りに賑やかな朝飯だった。
私を取り巻く日常は、忙しなく過ぎていく。
それなのに、ふとさっちゃんの声を思い出しては思い出に浸ってしまう。
(ぼうっとしてる暇なんか無いのになぁ。)
でも駄目なのだ、どうしても気になって。ふとした瞬間に考えてしまっている。
(さっちゃん…元気かなぁ。)
それであんまり気が入っていなかったんだろう。大根の皮を向いている途中に何度か呼ばれたらしかったのだけど、暫く気づかなかった。それで、ぼうっとまた考え込んでいたのだった。
「お姉?お姉ってば!」
「わっ!いきなり何よ!あー大根!!」
妹の大声にびっくりして、大根を持っていた手を滑らせてしまった。
「雪花」
「あぁ〜落としちゃった、もう…あ〜お父、足元気をつけて、大根落としちゃった。」
「雪花、お前にお客人だよ。」
「えー誰ー?」
父の足元に転がっていった大根を拾って顔を上げると、ここにいるはずのないひとが立っていた。
「雪花」
「…え?楠木さん?」
「雪花…ああ」
なんだかヨレヨレで疲れ果てた感じの楠木さんは、まるで偉いお役人さんが来た時のように地面に突っ伏してから、やがて肩を震わせだした。
「楠木さん、どうしました?なんでこんなところへ」
「雪花、君が必要なんだ。雪花が居ないと、駄目なんだ…」
涙ながらに懇願する様子を見て、目が点になった。
「え、まだ2日くらいしか経ってないんですけど。何があったの?」
「もう本当に…何から説明すればいいのか…」
後ろで、大きい弟と妹が耳打ちを始める。
「え、お姉の恋人?」
「お姉すごい、あんな立派な身なりの
「ほんとに冬の間、お姉って何してたん?お前聞いてねぇの?」
「いや…だって、お姉が話したくなったら、と思って」
「ああ、うん…お父が『根掘り葉掘りしたらいかん』って言ってたもんな。」
「そこ!違うからねっ?!このひとは恋人とかじゃないし!私のご主人様が産んだ赤ちゃんのお世話をしてたの、一緒に。それだけ!」
弟妹たちはまたひそひそ。
「それだけであの男の人、あんなになるか?」
「お姉がいないと駄目って…ねえ?」
「あ、お姉はその気は無かったから帰ってきたけど、諦められんかったとか。」
「なるほど!お姉やるじゃん。」
「結婚?結婚してくださいってこと?」
「そうなんじゃね?」
「だから違うっつってんでしょ!!」
「お前たち、静かにしなさい。」
父に嗜められて、弟妹たちはやっと静かになった。
「お客人様、うちの娘に頼み事があると伺っていたのは、その、そういうことで?」
いつもより折り目正しく話す父を前にして、楠木さんはちょっと冷静さを取り戻した。
立ち上がって身なりを直す。
「取り乱して面目ない、私は楠木という。そう、頼みごとというのは…冬の間、雪花さんには私の娘を看るために、
弟の一人が囁く。
「どういうこと?お姉、赤ちゃん産んだんか?」
「マヌケ、奥方様がいるんだよ。」
「じゃあお姉はお妾さんになるんか。」
違うわ、アホ。
楠木さんはしかし、父に真っ直ぐ向いて話し続ける。
「娘は雪花にとても懐いていたから、雪花が里へ帰ってからずっと…泣き続けていて」
「え、泣く?!あのさっちゃんが?!どこか悪いんじゃないの?!」
楠木さんは再び涙目になって首を横に振る。
「何も口にせず、ただ泣き続けていて」
「えぇー!お父、私ちょっと様子見てくる。すぐ帰るから心配しないで。楠木さん、行きましょう!」
「雪花…ありがとうっ…もう私一人ではどうしていいか分からなくなって」
「もう!しっかりして!楠木さんがそんな風に不安そうにしてるから、さっちゃんにも伝わるのよ!」
情けないことこの上ない楠木さんの背中を一発はたいて叱咤する。
「楠木様、お願いがございます。」
なぜか今度は父の方が膝を折り、楠木さんに正対する。
「我が娘雪花を楠木様の御元に末永く置いていただきたいのです。」
「ちょっとお父、何言ってんの」
跪く父を立たせようと腕を引っ張る。
「お父、何か勘違いしてるよ。私、娘さんが寝てる間に出てきちゃったの。別れが辛くなっちゃうかなって思ってそうしたんだけど、まさか泣き続けてるなんて…だからちょっと様子見に行くだけ。もうお勤めも終わったし、あんまり長く居候するわけにもいかないのよ、楠木さんはもともと女中なんて雇うつもりなかったんだし。」
「だが雪花、お前もこの数日で気が付いただろう。この村でこれから先、お前がどんな思いをして生きていくかと思うと」
すぐには返事が出てこなかった。父の顔はいつになく真面目だった。
「お前は村を出なさい。」
「お父」
驚いた。
ぼんやりしていそうな父が、そんな風に考えていたなんて。
楠木さんは少し目を丸くして尋ねた。
「雪花に、何かあったのかい?」
「あー…まぁ、無いってわけじゃないんですけど、大したことじゃ」
こんなこと言ったってもうどうしようもないことだし。と思って適当に濁そうとしたら、弟がしゃしゃり出てきた。
「お姉…
「えぇっどうしてそんなことに」
「それは…お姉が冬の間、人に言えないような暮らしをしていたって、みんな、勝手に噂して…だからお手当もたくさんあるんだ、って…」
黙っていられなかったみたいだけれど、弟は言っているうちに声が震えてきてしまった。
勝手に話に入ってきたりして本当はお仕置しないといけない。だけど、声を上げて悔しそうに泣き出してしまったので、つい背中を撫でる。
「あのね、私はあんな噂は気にしてないし、あんたたちだって、わざわざ相手にしなくていいのよ。でも、私のこと心配してくれてありがとう。」
「悪口言うやつらみんな嫌いだ…あの男は一番きらいっ…前は、お姉を嫁にくれってみんなして母ちゃんとこに話に来てたくせに、雪花は働きもので良い娘だって」
弟はとうとう本格的に泣き出してしまって、他の弟妹達までシュンと静かになった。これならさっきまでのほうがまだマシだった。まるでお葬式みたいになってしまったじゃないか。
「あの、楠木さん気にしないでくださいね。ほんと、楠木さんは関係ない話だし」
「雪花、この子の言う通りなのかい?」
「それは…まぁ、そんな感じではあるんですけど、まああれだけたくさんもらっちゃったし、誤解されたりねたまれたりっていうのは、考えてみれば当然かなって。」
「あれだけ、っていうのは?」
「うちの倉に入りきらないくらい、冬越しの食糧をいただいたんです。」
「お姉、冬の綿も入ってたんだよ、たくさん。」
「えぇーそんな珍しいものまで?」
「あとお薬も。」
「お薬?なにの?」
「わかんないけど…リンがお腹痛くなっちゃったときに舐めさせたら、治った。」
「あ、それお父の腰痛にも効いたよ。」
「そういえば、タオが熱出した時にも効いた!」
「へぇ…?そんなお薬があるのねぇ。」
楠木さんは、怪訝な顔をして呟く。
「それは、もしかして…じゃあその手当というのは、栴殿が用立てたのか。」
「栴様があのお手当を出して下さったってことですか。」
「うん、恐らく。」
「そうだったんだ。とってもありがたかったんですよ、うちはご覧の通り頭数が多いので、あれが無かったらどうなってたか。」
「そう…その薬というのは恐らく、万の病に克つという霊薬だ。大概のものには効くだろうから、大切に保管しておきなさい。」
「はい。わぁ、栴様ありがとうございますぅ~っ」
楠木さんはなんだか晴れない顔をしているけれど、門外不出とかすごい希少とか、そういう類のお薬だったんだろうか。そんなありがたいお薬をもらえたなんて。
感謝感謝だ。
「あの、楠木様、先ほどのお話ですが…その」
遠慮がちに父がふたたび口を開く。
「あ!そうだった、雪花を私のところでという話だね。こちらとしても願ってもいないことだ。あ、でも雪花の希望を第一に優先するつもりでね」
「え?ほんと?私、さっちゃんのところに居られるの?」
「寧ろ私がここに来たのはそのためであって!ああ、吾子は無事だろうか…後からなんでも希望は聞くから、とりあえず一緒に来てくれないだろうか!」
「もちろんです、とにかく今すぐさっちゃんのところに行きましょう!じゃあみんな、そういうことでまたお勤め行ってくるから!」
「え、今!?お姉、次はいつ帰ってくるの?」
「分かんないけど、そのうちに」
「帰ってこなくていい、元気でいるならそれでいい。」
「お父」
父は地面に額を擦り付けた。
「楠木様、ご厚情心より御礼申し上げます。」
「雪花さんの身辺は私が全て引き受ける。不足ない暮らしを約束する。そうだ」
楠木さんはパチン、と両手を合わせて、畑の向こうの山を指差した。
「あの山の頂上に、岩の割れ目から芽を出した若木がある。周りの木を刈って風通しを良くすれば、地鎮の要となり
まだ幼い妹がきょとんと首を傾げる。
「仙人さまなんか、おいちゃんは。」
「楠木様は仙人様ではなくて、神様なのですって。」
「え?このにいちゃんが?」
「そうよ。」
弟妹はちょっとの間顔を見合わせていた。
「お姉、だまされてんじゃねぇの」
「こら!失礼でしょうっ」
「神様にしちゃあ、あんまし強くなさそうだけど」
「それはっ…見た目でそんなこと」
咄嗟に上手く誤魔化せなかった。だって、栴様や神鷹さんと比べて、確かに同じように感じてしまっていたし。
「雪花を置いてくださるんだから、どんな神様よりもありがたい御仁だ。お前の様子を見ていれば、冬の間よくしていただいていたのが嘘じゃないのはよく分かる。」
神様らしくないというのは否定しないんだから。父の態度からは、持ち上げてるんだかなんだかよく分からないけどとにかく感謝しているということだけはよく伝わってきた。
「どうぞ、どうぞ娘をよろしくお願い申し上げます。」
「お父、行ってきます。」
「雪花、よくお仕えするんだよ。元気でな。」
「はーい。」
家族に手を振ると、楠木さんの方に向き直った。
「お待たせしました。」
楠木さんに手を取られる。と、風に包まれた感触がしてふわりと身体が中に浮いた。
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