第22話

神鷹さんが帰った後、楠木さんの不審さはしばらく続いた。

 そうこうしているうちにどんどん落ち込み始めて、どんよりと黒い影を背負い始めて。


 ついには、さっちゃんがあんよをパタパタするのを掌で受け止めながら、半泣きでつぶやくのだ。

「紗良紗…かわいい紗良紗。」

「楠木さん、いつまでその調子なの?」

「雪花…短い間だったけれど、いろいろ教えてくれてありがとう。楽しかったよ…本当に。」

「さっちゃんは無事だったんだし、もういいでしょう。何をそんなに気にしてるの?」

「全然終わってない…いや寧ろ私は終わった…栴殿の心象は最悪だ。」

「栴様怒ってないって神鷹さんが言ってたじゃないですか。」

「雪花は、栴殿の恐ろしさを知らないから。」


 嘘だ。

 栴様はそんな御方じゃない。

(ご主人様だって、優しい御方だって言ってたもん。それに栴様はどっちかっていうと、ご主人様以外は何にも興味無いから)

 やっぱり分かりにくいのだろうか。

 ちょっととっつきにくいし。

(何考えてるのか分からないから、恐い?)


「高天原はすっかりあの男の思うがままだ。今やあの男に意見する者などいやしない。」

「栴様は」


 根が優しいってご主人様が言ってました、だから大丈夫ですよ。

 と、言いたいのに言葉が詰まる。

(まただ、この変な感じ。どこか悪いのかなぁ…)


「紗良紗は天の御子。だから御衣は天衣あまのころもを羽織る。もう一枚欲しいと言ったら、やっぱり同等のものをとなる。でもそれは主上しゅじょうに織り上げていただくことになる…」

「いろいろ決まりごとがあるんですね。」

「そうなんだ。主上にご迷惑をおかけするのを栴殿は見逃さない。」

「そのシュジョウって、ご主人様のことですよね?ご主人様は、迷惑なんて思わないと思いますけど。」

「それこそ栴殿の匙加減一つだ。」

「ご主人様がどう思うか、栴様が決めるってこと?はあ?」


 何言ってるんだ、楠木さんは。流石にそれは変じゃないか。ご主人様がどう思うかは、ご主人様しか分からない。

 いつもにこにこ、ふんわり笑うご主人様を思い出す。きっと、このかわいい赤ん坊のためなら嫌な顔をすることもないだろう。

(それは流石に自分に都合よく考えすぎかな?)

 だけれど、少なくともご主人様絡みで栴様が怒り狂って楠木さんを抹殺する、というほどのことでもないんじゃないか。

(あ、だけど)

 そういえば、『できれば早く』みたいなことを言って急かしてしまった。これは確かに印象が悪いかもしれない。


「そんなに迷惑なんてほどのことじゃないとは思いますけど。自分のお子さんなんだし。でも考えてみたら『早く』なんて言っちゃったのは悪かった気がしてきました。ご主人様は産後だし、まずはゆっくり休んでもらわないとなのに。」

「…」

「もう一度神鷹さんに来てもらってもいいですか?『やっぱりいつでもいいので、もらえたら嬉しいです』くらいにしておいてもらおうかと思うんですけど。」

「呼ばないでっ?!ねだっている状況に変わりはないから、それ!解決策になってないから!」

「楠木さん、心配性だなぁ。」

 楠木さんは弱々しく肩を小さくして、涙目で呟いた。

「栴殿に疎まれて、これからどうやっていけばいいんだ。」


「楠木さん、心配しすぎだって。」

「心配なんじゃない…事実なんだ。紗良紗に、ささやかでも不足のない暮らしくらいは与えられるだろうと思っていたところだったよ。でも私が居なくなったら?君はもうすぐ帰ってしまうし、この子は寄る辺もなく…」

「楠木さん消えるの確定なの?」

「ああ、なぜこんな暮らしを始めてしまったんだろう、いっそのこと紗良紗は初めから…こんな、自然の摂理に逆らってあれこれ世話なんてやかなければ良かったんだ!そうすれば…そうだ、なぜこんな残酷なことを私は」


 思いの外、林の中でもべチンッと音が響いた。


 楠木さんの両頬をしっかり挟んだまま、じっと目を見て話しかける。

「楠木さん、しっかりして。何言ってるの?」

「…本当のことだ。じきに神鷹が私を呼びにくる。きっと私は帰らないよ。そうしたら、この領は結界を失い、私の眷属も方々へ散るだろう。紗良紗を守る者たちは皆居なくなる…なんて残酷なことをしてしまったんだろう。」

「眷属って、あのリスとか鳥?」

「そうだよ。天津神は産まれてすぐに眷属を見つける。その眷属が赤子の世話をするのが普通なんだ。紗良紗は、私の眷属が世話を始めてしまったから、眷属を見つけられるかどうか」

「じゃあ楠木さんが消えちゃったらリスとか鳥にさっちゃんの眷属になってって頼んでおけば?そうすれば楠木さんが消えても安心でしょ。」

「みんな、紗良紗に仕えてくれるかなぁ…」

「ウダウダ言ってる楠木さんより可愛くて賢いさっちゃんのほうがよっぽどいいんじゃないですかね!」

「そうかぁ…」

 ちょっと意地悪言いすぎたかも。楠木さんは半泣きで遠くを見つめる。

「つまり楠木さんがさっちゃんのそばにいればいいんでしょ。」

「だから、私はもう駄目だって…」

 もう一度、楠木さんの両頬をベチべチンッと叩く。

「もう、しっかりして。さっちゃんの父親になるって、覚悟決めたんじゃないの?栴様は怒ってないって神鷹さん言ってたでしょ。」

「ふふ…怒っていないっていうのはね、きっと別の言葉で表現する方が適しているからなんだよ。不愉快だとか、目障りだとか」

「お取り込み中失礼します。」


 頭上から神鷹さんの声がして、楠木さんは私とさっちゃんを抱き抱えて飛び退いた。

 驚きすぎだって。

 そして神鷹さんはやっぱりなんの反応もなしに話し始めた。

「何色がいいか、とのことです。」

 楠木さんが素っ頓狂な声で「へ…?」とこぼした。

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