第18話

楠木さんの御殿は、こじんまりとしてはいるけれど使い勝手のいい御屋敷だった。

「広すぎると行きたいところに辿り着くまでが大変だしね。ねー、さっちゃん。」

「ぅー」




 楠木さんの御殿に着いてから早数日。

 さっちゃんはお腹を下すことも熱を出すこともなく、健やかにすくすくと大きくなる。水場が近くて使いやすいので、水浴びを日課にするようになった。水浴びをするとさっちゃんは気持ちよさそうだし、よく眠るからだ。

 さっちゃんの寝床は、最初は北の離れの部屋にと言われた。けれど、遠いし豪華な調度品がやたらと並べられていたので使い勝手が悪い。ということで、母屋の空いているところに寝床を移してもらった。大事なお客様用のお部屋で大切に育てようという気持ちは理解したのだけど。宝飾品で子どもは育てられませんと言ったら、楠木さんは衝撃を受けたかのような顔をして絶句していた。

 風通しが良くて、日差しも強く差さない。水場に行きやすいし、私に与えられた部屋にも近い。なかなかいい場所を選んだと自分でも思う。




 ご機嫌に足をパタパタと動かしているさっちゃんに話しかけていると、楠木さんが様子を見にきた。

「もしかして比羅坂ひらさかの離宮と比べて言っているのかい?あんなの尋常じゃないよ。」


「へぇ、比羅坂っていうお屋敷だったんですね。」

「それも知らなかったのか。」

「私けっこう走ったんですけど、どこまでも続いてました。」

「走った…比羅坂を…」

「あ、離宮ってことはそれってつまり…栴様って、高天原の王様ってこと?わぁ、私栴様にけっこう大声で注意しましたよね…あわわ、やってしまった」

 

 何か一言くらい言ってくれたっていいのにと思うんだけど、楠木さんは青い顔をしてじっと私の顔を見た。

 栴様が只者ではないのはもう十分に理解している。そしてその栴様に愛されているご主人様も。

 反省は反省として、でもきっと子守に関しては期待に応えられるはず、と考え直す。肩の力を抜いて、さっちゃんの足をさすった。

「さっちゃ〜ん、いい子ね。さっぱりして、気持ちよかったねー。」

さっちゃんは気持ち良さそうにうとうとしだした。



 楠木さんは真面目な顔で、微睡むさっちゃんを見つめる。

「雪花は、この御子が栴の宰相殿の御子と言ったね。どうしてそう思うんだい?」

「だって」

 ふと、めまいがして立ちくらむ。


 


 しばらく喋れないでいると、楠木さんは大真面目な顔で尋ねた。

「それは、おふたりのご様子を見ていて、そう…考え至ったということかな?」

 言葉が出てこず、ただ頷いた。

(急に、なんで?くるし)

 いよいよ視界が回って、息が吸えなくなってきた。慌てた様子の楠木さんに抱き抱えられて私室で横になり、しばらく大人しくしていると、徐々に血の気が戻ってきてほっとした。


「雪花、気づかないで悪かった。君は主上から何か言い付けられているね?」

「言いつけ…?ちょっと、約束しただけで」

「そうか。それを破ろうとしてはいけないよ、雪花のためだからね。」

 楠木さんは、ゆっくりと深く息を吐いた。

「でも…そうか、それは…おふたりのことは、雪花は知らされていないのだし、このまま知らずに里へ帰るのが良い。」



 やがて身体の強張りも解けて、ふうと深呼吸した。

「私が帰るまでに、楠木さん、ちゃんとしてくださいね。」

「勿論だ。もとよりそのつもりでいたけれど、雪花の話を聞いて、より身が引き締まる思いだよ。紗良紗様…いや、紗良紗がね、生まれるに当たって天より御詞おことばを賜っているんだ。『この御子神を初めに抱いた手が、御子にさいわいもたらす』と。もう誰に代わることもできない、大事なお役目だ。だから、私は」

 楠木さんはそこで話すのを止めて、ぎゅっと両手を握り合わせた。


 疲労感と寝床の心地良さでうとうとして、欠伸が出た。楠木さんが優しくこちらを見守ってくれている。

「雪花、少しおやすみ。私はもう少し片付けをしておくよ。」

「そうですね、赤ちゃんに危なくないように。」

 頷きながら、もう一度欠伸が出た。

「ねえ、さっきの話って、最初に抱っこした人がお世話したらさっちゃんは幸せになるってこと?」

「そうだね、だから私が受け取るまでは誰も紗良紗を抱いていないはずで…あれ?」


 楠木さんも気づいたらしい。

「え…?」

「わたし、楠木さんより前に、だっこしましたけど〜。」


 眠くて、ちょっと意地悪な笑いになってしまった気がする。楠木さんの「おお?!」とか「ええ?!」とか言っているのを聞きながら、するすると眠りに落ちた。

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