第15話
栴様は、ただ黙ってゆっくりと赤ん坊の方に向き直った。
顔は見えないのだけれど、なんとなく分かる。
(栴様、名付けとか頭に無かった感じだな。あー、早く終わらせたそうだな。ご主人様の身体が心配なのかな。うん、それ以外考えて無さそう。)
誰もがかしこまった雰囲気なのであまり笑い出してはいけないと分かっているのだけれど。
今まで弟妹たちをさんざんお世話してきた私に、今度こそぴったりのお務めだ。少なくとも楠木とやらいうこの男の人よりはご主人様の期待に応えられる自信がある。
「姫さまですか?それとも彦さまですか?」
「女の子よ。」
「じゃあこの見事な御衣にぴったりの、すんばらしく麗しい姫さまに育ちますよ、ふふ。」
「
「まーたそういうこと言う。とっても綺麗で美しくて、優れた御手の
「そ、そう、かな?」
「そうですよ!あんなに丁寧に仕上げてたじゃないですか、このお子様のためになさってたんですね。」
「そっか…じゃあ」
ご主人様は少し考え込んだ。
「紗良…いいえ…でも」
「さら様ですか!」
「ううん、紗良じゃなくて…紗良、さ…紗良紗。」
「さらささま!素敵です!」
「良い名かしら、紗良紗…紗良紗…」
ご主人様は呟きながら、尋ねるように栴様に視線を向けた。栴様はちょっと間を置いてからコクンと頷いた。
ご主人様はほっとしたように笑った。
「うん。」
楠木さんはまた長々と御礼を伝えて、もう本当に行くよと、今度は私を待たずに退室してしまった。なので、私もその後ろを追いかけて外に出た。
しばらく早足についていくのに小走りになっていたのが、楠木さんがやっとゆっくりになった。
「急いでるんですか?」
「そうだね…雪花さんというんだね?君は」
「はい。あなたは楠木さんですね?」
「そうだ、これからよろしく頼むよ。それにしても」
楠木さんは乱れた息を整えながら、何か言いかけた。
が、やっぱりやめたらしい。
「行こう」
「どこへ行くんですか?」
「私の領へ」
「領?あ、楠木さんのおうちですか?」
「うんうん、そんなところだ。」
「紗良紗様を連れて行っちゃっていいんですか?」
「そうだよ、早く出ないと」
「なんで?」
「もう想定以上に長居しているんだ、不愉快な思いを」
楠木さんは、まずいことを口走ったとばかりに口をつぐんだ。
(はあん?これも栴様に聞かれてるのかも、ってことか。でも)
「栴様は早足か歩くかくらいで怒らないと思いますよ。楠木さん心配性?」
「いやぁっもー拾わなくていいから!早く歩いて?!」
「楠木さんの方が息上がってますけど、大丈夫?」
「うんっへーき!だから心配しないで、早く」
「次はいつお顔を見せに来るんですか?」
「いや、そんな予定は無いけど」
「えぇー?決まってないんですか?じゃあ尚更こんなに急がなくてもいいでしょ、御子を預けてる間は寂しいでしょうに」
「いや、預かるんじゃなくて…誰が寂しいって?」
「ご主人様と栴様に決まってるでしょ。二人の御子なんだから」
楠木さんはビクッと肩を跳ね上げて、よろよろと足取りが覚束なくなった。とっさに紗良紗様を取り上げる。
「大体ね、紗良紗様を抱っこしてるのにこんなに急いで、ちゃんと首支えてました?こうですよ、この肘曲げたとこに」
「この御子神は、私の娘だよ。」
「あー、はい、親代わりね?そうですよね、やっぱりやんごとない御方たちは、自分で子育てしないですもんね。私も昔、村の長者さんとこの赤ちゃんの子守りしたことあったんですけど」
「そんなんと同列に語るな?!いや…この子は私の娘だ、預かるんじゃない。私が育てる。雪花さんにはその手伝いをしてもらうんだよ。」
「え、でもご主人様の姫さまだって…?あ、貰う約束してたってことですか。それなのに抱っこの仕方も知らなかったの?」
「だから私の子なんだって!もう、話は後にして早く行こう」
楠木さんが息苦しそうなので、ひとまず話すのを止めて歩幅を合わせる。
「あ、楠木さんの奥さんがお世話する話になってたんですか?」
「いや、私は独り身で妻はいない。」
「あ、そう。じゃあ私みたいな出稼ぎのお手伝いの人がおうちで待ってるんですね。」
「私みたいなっていうか、雪花さんがお手伝いに来たじゃないか。」
楠木さんは「何を言っているんだ」とばかりに不思議そうにこちらを見た。
「いやいや、何言ってんだって、こっちが言いたいくらいですよ?まさか、楠木さん一人で紗良紗様のお世話するつもりだったんですか?」
「もちろんだ。…な、なに?」
「紗良紗様のお部屋は用意できてるんですか?」
「お部屋?」
「寝床とか、着替えとか」
「??」
「食事は?乳母とか」
「???えっと、ひとまず木の実とか、食べさせればいいかなって」
「冗談でしょ?私がいなかったらあなたどうするつもりだったの?!赤ん坊の世話舐めてんじゃないですよ?!」
「え?!え?!」
「あ、でもそうか!紗良紗様も神さまなのね。神さまって何食べるんですか?」
「だから、木の実」
「他には?」
「草とか、食べられればいいんだけれど」
「正気?今からでもご主人様のところに戻ってお返しした方がいいんじゃ」
「とんでもない!」
「私は冬が明けるまでしか居ないんですよ。悪いこと言いませんから、取り返しのつかなくなる前に」
そう言いながら後ろを振り返る。しばらく歩いたけれど、まだあの御殿が見えるはず。だって、ここまで遮る建物も何もなかったのだから。
「雪花、行くよ」
「楠木さん」
見渡す限りの花園の遠く、空がとっぷりと暮れている。点々と植えられた富貴草の一つと、ふと目が合った。だけど、今は誰も話しかけてこない。
ゆらゆらと揺れる足元の白い花たちも、じっとこちらを見ている。
「雪花、戻りたいなら一人でお行き。」
楠木さんは紗良紗様を返すようにと、両腕を伸ばした。
(そんな真面目な顔したって、ひとりでこれからどうするのよ。この子には、私がついてなきゃ。)
「楠木さん、何言ってるの。私がいないと困るの、楠木さんの方でしょ。」
もう一度歩き出す。
前を向くと、ふわりと甘い香りがやってきた。いつの間にかぴっちりと整えられた石畳の上を歩いていた。その両側に花木の生垣が続いている。小振りの薄橙の花が溢れんばかりに咲き誇る。圧巻の眺めにうっとりしながら、楠木さんに続いて歩き続けた。
しばらくその美しい石畳の道が続いて、それから白い柱がたくさん並んだ広場のようなところを、端の方を静かに通り抜ける。またしばらくすると薄橙の小道が現れる。
それを抜けると、今度は森の木々の香りに包まれた。
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