第14話


 神鷹さんに続いてご主人様のお部屋へ一歩入った。

 その時だった。

 懐かしいようで、この場所に似つかわしくない声。私はこの声を聞いたことがある。

「んん…?神鷹さん、あのお」

「なんですか。」

「赤ん坊の声が聞こえません?」

 神鷹さんは少し振り返って、ちょっと眉間に皺を寄せた。

「それがどうかしたのですか。」

「あ、いえ。」


「いやすごいびっくりしてますよ、今?赤ちゃんいるんですか?!」

「まだいらっしゃるようです。」

「まだ?!赤ちゃんまだいらっしゃるってどういう意味ですか?!」

「雪花、もう少し声を控えめにしたほうがいいでしょう。」

 神鷹さんは嗜めるようにこちらの顔をじっと見つめてから、そっとご主人様のお部屋の扉を開いた。



 白い獣に一瞬驚いて、ああ栴様かと気づいて胸を撫で下ろす。その向こうに、寝台に横たわるご主人様の袖が見えた。

 そしてもう一人。その男性は寝台のご主人様に向かって、何か伝えているところのようだ。


「何事も思し召しのままに。どうぞごゆるりとご静養あそばされませ。」

「うん。」


 異質な雰囲気に身体が強張る。うんと言ったご主人様の声は、いつもの優しい声音ではなかった。抑揚のない、まるで心の無い人形から聞こえてくるような、生気の込もらない声だ。

 何かあったのだろうか。

(お疲れなのかも?)

 心配になって、神鷹さんを追いかけるように数歩を進む。

 その時、栴様が何かを包んだ白い布を手に持っているのが見えた。男性に手渡そうと腕を伸ばして差し出す。男性はどうやら緊張しているようで、ぎこちなく、それでも両手を伸ばそうとした。

 その時、白い布の中からまた聞こえたのである。

 

 ふにゃぁ。

 にゃぁ。





「それ赤ん坊ですよね?!あっあっあああ駄目駄目そんな風に持ったら!首!首ー!」

「…雪花、なんだ。」

「なんだじゃないですよ栴様!赤ん坊をそんなっ荷物みたいに片手でぁゎぁゎゎーこうです!こう下から!下から腕で抱えるんです!!」

 その包みが泣き声の元だと確信して、必死に身振り手振りで抱き方を伝えたのだが。

「え?」

「え、じゃないってば!」

「あー、うん。」

 栴様があろうことか面倒事のような顔をして男の人の方に赤ん坊を早く渡してしまおうとするので、男の人の方が慌てて手を伸ばす。が、どうにもガチガチに緊張しているようで、赤ん坊を指先で受け取ろうとするのである。見ていられなくなって咄嗟に赤ん坊を下から抱き上げた。

 心なしか泣き声の籠った感じが無くなって、赤ん坊がすうっと落ち着いたのだった。




「ほらぁやっぱり…苦しかったんですよ、この子。」

「「…」」

 栴様も男の人も、赤ん坊と私をただただ見るばかりだ。抱き方も知らないで、よくあんなやり取りをしようと思ったもんだ。ちょっとは反省しているのだろうか。

 赤ん坊は白く柔らかい衣にぐるぐる巻きにされて顔も見えない。が、腕の中の強張りが緩んで、健康らしくのんびりと欠伸をする音が聞こえた。

「あは、かわいい」

 赤ん坊の欠伸って、とにかくかわいいのだ。気配だけで笑顔になってしまう。

「あ、この御衣!ご主人様、このお子さんのためのだったんですね!」

 やっぱり、とんでもなく上等だ。この子は幸せ者だなぁ。

「雪花、いつまでそうしているのですっ」

「あっはいぃごめんなさい!すみません横から急に。はいどうぞ。」

 もともとはこの男の人に渡されるところだったのだから、このまま預ければいいんだろう。ただし。

「あっ、えっ?」

「両手で、下からですよ。」

「え?あ、あ、はぃい」

「だーから指先で持つんじゃないってば!」

「は、はいっ」

「そう、そう。あんまりガチガチだと、赤ちゃんにも伝わって不安にさせちゃうでしょ、ほら落ち着いて。」

「そ、そうか…」


 まだぎこちないものの、指先で受け取ろうとしていたのに比べたら段違いに安心感が増した。注意深くいれば、これなら落とす心配も無いだろう。ひとまずほっとしたところへ、背後から栴様に尋ねられた。

「雪花、稚児ややの扱いに慣れているのか?」

「はい、なんたって弟と妹あわせて9人ですからね。ちっちゃい時からいつも赤ん坊おんぶしてましたよ。」

「おんぶ?」

「背負うんです、こう。」

 白い毛モジャの栴様の隣で、ご主人様は新しいものを見た感動なのかなんなのか、目をちょっと丸くさせて身を乗り出した。すると栴様がご主人様のほうに振り返り、黙って頷く。

 それから静かに見つめあう。



(目の前で見つめ合われちゃったってさ、私はいいけどさ。この人は多分焦ってるよね?なんたって初めて抱いた赤ん坊が腕の中にいて、あーあー、また泣き出しちゃって…抱き方が気に入らないかなぁ?それとも顔が覆われてて苦しい?)

 男の人はあからさまにオロオロするばかりで、何をしようとする様子もない。見ていられなくなって男の人の肘を少しずらしてみたり、背の辺りをトントンと宥める。泣き声が少し小さくなると、男の人は今度はあからさまにほっとした顔をする。

(こんな人に一時でも赤ん坊を預けたりなんかして平気なんだろうか。)


 心から心配していたところへ、栴様のいつも通り素っ気ない声が聞こえた。

「楠木殿、その人の子を手伝いにやろうか。」

「えっ!はい…はいっ!!なんというご厚情、天の御心はまこと尽きることなく…」

「雪花」

「はい、栴様。」

「冬が明けるまで、その赤子の世話を任せる。入り用は何でも神鷹に言伝てれば用立てよう。勤めが明けたら家に帰すのは今までと変わりない。」

 隣を見れば、男の人がふんふんと頷く。目を見開いて、期待の眼差しをこちらに向けてくる。

(だめだ!この子のために、この人に任せられん。たぶんご主人様と栴様もそう思ったんだよな、うん。だけど…)

「私はいいんですけど、でもご主人様のお相手はどうすれば?」

「もう十分果たしたとのことだ。」

「えぇえ?あんなんで?」

 栴様が視線をご主人様に向けると、ご主人様はにっこりと笑って頷いた。

「じゃあ、はい。分かりました、せいいっぱいお勤めします。」


 ご主人様の元を離れるのかと思うと寂しい。だけど、生まれたての赤ん坊のお世話は大好きだ。なんたってふにゃふにゃで、腕の中で眠っているだけで幸せにさせてくれる、私が知っている中で何よりも愛らしい生き物なのだ。

 楠木という男の人は、何とかかんとか長々とご主人様たちに挨拶をして、部屋を出て行こうとする。私も一緒に行くべきだろうと立ち上がって、しばらく会えないかもしれないと思ってご主人様にお祝いを申し上げた。

「ご主人様、私も行きます。」

「うん、その子をよろしくね。」

「はい、お任せください!このたびはおめでとうございます!お腹に赤ちゃんがいたなんて、全然気づきませんでした。ご主人様、ゆっくりお休みになってくださいね。ご主人様は食が細いですけど、産んだ後なんだからいっぱい食べてくださいね!私の母も末っ子を産んでから寝込んじゃったんですよ、でもあの時に食べるものが足りてればなぁって。だから」

「もう、もう行きます、行きますよう!ほら、早くおいでっ」

「分かってますって、だから挨拶してるんでしょう!ちょっとくらい待てないんですか、あなたは!」

 なんだこの人は、頼りない上に鬱陶しい人だ。お別れ前にご挨拶しているというのに、途中で割り込んでくるなんて。

「でっででっでもね!この御子は」

「いいのです、雪花を咎める必要はありません。」

「はっ…失礼致しました。」

 訳がわからない楠木さんとやらに、ご主人様がはっきり言ってくれた。

(ほらね。ご挨拶を急かすなんて、私よりせっかちかもだな、この人。)


 ご主人様は、ちらっと赤ん坊を見て、瞳を伏せた。

「その子は、私の子です。」

「はい、心を込めてお世話いたしますね!」

「うん、雪花が居てくれて良かった。栴」

 栴様は静かにご主人様を見つめる。ご主人様は赤ん坊を、今度はまっすぐに見つめていた。

「私、この子の名を考えます。」

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