第7話
「雪花、こちらよ。」
「ご主人様!」
言われた通りに回廊を渡ったり廊下を通り抜けると、ご主人様に手招きされた。一緒にいた栴様は、やっぱり獣の皮は被っていなかった。外出用なのかな、と理解した。
栴様はご主人様の耳元で何か言って立ち去ってしまった。ただ、その囁く様もまた愛しみに満ちて優しいのだ。ご主人様もふんわりと微笑んで頷く。見ているだけでこちらまで幸せを分けてもらった気分になるのだった。
ご主人様は屈託なく微笑んで迎え入れてくれる。
「雪花、お腹が空いている?」
「えへへ…はい〜。」
「たくさんお食べ。」
にっこりと机の上の美しい皿の数々を示され、涎が一気に押し寄せて来たのをゴクリと飲み込んだ。
これは何だと考えると同時に口に運び、どれも美味しくて騒いでしまう。ご主人様はそんな私を見ても穏やかに微笑みながら、温かく見守ってくれている。
「
「神鷹さんっていうんですね、あのひと…なんだ、名前あるんだ。」
「あ…んー、神鷹は名前ではないのよ。」
「瑞穂って不思議な国ですね。名前がなくても、ご主人様は困らないんですか?」
「うーん…」
「困らなくはないんですね。」
「ありがとうって伝える時に出来ればその子を呼びたいのだけれど、他の子が来る時もあるの…でも勝手に名付けるのも…」
「ご主人様が名付けちゃえばいいんじゃないですか?栴様だってダメとは言わないと思いますよ?」
「んー…」
ご主人様は困ったように言葉に詰まってしまった。
(かわいいなぁ。栴様がどう思うか気になっちゃうんだ。)
私だっていちおう許婚がある身だ。そういう気持ちは、何となく分かる。
「ご主人様は、栴様を尊重してるんですね。」
「私ね、栴に、無理強いしたくないって思ってるの。本当にそう思ってるの。栴が嫌なことは、私だって嫌なの。だけど…だけど、私…栴にそばにいて欲しくて」
ご主人様は急に俯いて押し黙ってしまった。別に、変なことなんて言ってないのに。
「大切なひとには、そばにいて欲しいですよね。」
ご主人様は瞳を潤ませて頷く。
「栴は…うん、大切なひと。私、栴と一緒に居たい…って思ってる。ねぇ雪花、誰にも言わないでね?」
やっぱりかわいいなぁ、としみじみ思いながら大きく頷いて。それから団子を飲み込んだ。
「栴様もご主人様のこと、何より大切に思ってるでしょう。」
「そうだったら嬉しいな。」
「ていうかご主人様以外興味無いと思いますよ、栴様は。」
「そうだったら…嬉しいな。」
ご主人様は少し目を丸くしてポッと紅くなる。
「ちょっとくらい言ってもいいんじゃないですか?浮気しちゃ駄目よ、とか。」
村の許婚を思い出す。
しかしご主人様はふるふると首を振る。
「それくらい、遠慮しなくたっていいのに。栴様だって『可愛いな』って思うんじゃないですかねぇ。」
「分からない、ひとの心は変わっていくこともあるから。だから栴がくれるだけでいいの、頼まなくても栴がそばに居るのが、嬉しい。」
「はあ…控えめですねぇ。」
「ねぇ雪花、私が言ったことを誰にも言わないでね。内緒よ。」
「はあい。」
ご主人様は綺麗な手つきで小さな菓子を一つ、口元へ運ぶ。どうしてこんなに滑らかで、無駄がない上に美しい所作なのだろう。真似てみようとじっと観ていると、ご主人様は私がそれを食べたがっているのだと思ったのか、皿をこちらへ寄越してくれた。
「雪花とお話ができて嬉しい。雪花が来てくれて良かった。欲しいものは何でも言ってね。」
もう十分いただいてます、と奨められた菓子をもぐもぐと味わいつつ頷く。果物を糖蜜で包んで固めてあるのだろうか、優しい甘みと噛むたびに果実の香りが口の中に広がって、幸せな気分になれる逸品だ。これ以上に何か望むものなんて思いつくものなのだろうか。正しく満たされているといったところだ。あぁ、幸せだなぁ。
しかし、『そうだ』と思い出した。
「ご主人様、そういえば私になにか頼みたいことがあるって言ってましたよね?」
「ふふ、もうやってもらっているわ。」
「え?どれがですか?」
「私のお話相手。」
確かに、そう言われて馬車に乗ったのだが。
(貴族様は気軽に話せる相手もいないってこと?あ、でも…ご主人様ってそもそもひとじゃない、のかも)
そうだ、ここは瑞穂の国。鬼の棲むところだ。
(だけど、恐い鬼ってわけでもなさそうな?栴様も獣じゃなかったし…あーでも神鷹さんは鳥なんだか知らないけどひとまず人じゃないし、そのご主人なら栴様も…)
ご主人様の微笑む様をじっと注意深く見ていたら、むしろ悲しそうな顔をして首を傾げられてしまった。
「嫌だったら、嫌って言ってね…」
「嫌とか思うわけないじゃないですか!ほんとのほんとに…これがお仕事ってことですか?そ、そうだ!栴様は針仕事がどうとか虫がどうとか」
「栴が…なんて言っていたの?」
「虫は平気か、っていうのと、針仕事は出来るかっていうことです。」
「まぁ…」
ご主人様はそっと俯いて顔を覆い隠してしまった。
「ご主人様?」
「どうしよう、雪花、私…」
「へ?」
「栴がそこまで考えてくれていたなんて、すごく嬉しい…」
よく見ると、ご主人様の耳は真っ赤だった。
なんだか訳が分からないが、針仕事ができるのと虫が平気なのは大事だったらしい。
「ご本人に言えばいいと思います。」
「なにを…」
「嬉しいって。」
(なんか訳わかんないけど…もういいわ。喜んでもらえてるみたいなんだし。)
神鷹さんにも余計なことは聞くなと言われているし、ご主人様が本当は鬼でも、もう怖いとも思わない。こんな可愛い鬼も居たんだなぁとしみじみ感動しながら、ふにゃふにゃしているご主人様を見ていた。
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