第5話

駆け寄る花を獣が抱き上げた。

「お帰りなさい。寂しかった。」


 花はさらに綻んで、甘く優しい声で獣の首に腕を回す。ふわりと下ろされた花は、徐に獣の首元を摘む。そして全く軽やかに、薄い薄い羽衣を扱うように軽やかにするすると一枚の毛皮を剥いでしまうと、中から現れた麗人が花に頬を擦り寄せた。

「待ってた?」

「待ってた。」

「そう。」

 麗人の声音は、ひどく優しくなっていた。





 麗人に促されて花がこちらへ視線を寄越した。美しい光景にただただ見惚れて立ち尽くしていたところだったのが、いきなりその一部に引き込まれて慌てて低く跪く。あ、動いてる、と身体の自由を自覚して地面に手をついた途端。

「いっ…ったぁぁああ!!」





「こんなに赤くなって、かわいそうに」

 花は優しく私の手を取って嘆いてくれた。優しさに、今まで堪えていた涙があふれでる。踏んづけられてからここに至って初めて優しい言葉をかけられたなと気づいて、この姫様が主人でありますようにと願った。

「ふぇえっいたいっいたあぁ!」

「すぐに治りますよ。もう痛くない、痛くない。ね?」

「ひぐっ…いぃぃ…いた…くない」


 いったい何が起きたのか、分からなかった。ただほんの瞬きの間にすうっと痛みがひいてしまって、もうすっかり元の手に戻っていた。

「???」

 握ったり開いたりしてみても、やはりなんともない。



 花は間近で見るとやっぱり可憐だった。ふわふわと波打つやや茶色がかった髪に、透き通った薄い茶色の瞳。滑らかな白い肌に、ほんのりと赤みが差した頬。たくさんの色糸で彩られた袖越しに、ほっそりと華奢な指の感触がする。

「治った?」

 先程までとは違う理由で声が出なくなって、ぎぎぎ、と首を不自然に縦に振った。

「そう、良かった。」

 微笑まれて、今度は舞い上がるような心地に襲われた。心臓がバクバクと苦しいほどに波打つ。

 女神様。そばにいさせてください。




「娘娘からの贈り物の人の子だ。冬が終わるまでの間ここに居る、お前の好きなようにすればいい。」

 獣の皮を脱いだ麗人は、さらりと女神様に告げた。女神様の優しさの前では、麗人の素っ気なさが際立った。女神様に微笑んだ瞬間は、優しい雰囲気だったように思うのに。

 まあつまり、あれだ。

(このお方は、この女神様以外に興味無いんだな。)

 だが、とにかくそれどころではない。喜び飛び上がりそうなのを堪えて堪えて、それでも顔がニヤニヤしてしまう。

(やった…やった!本当にこのひとがご主人様だ、冬が明けるまでこのひとの側に居られるんだ!)




 女神様は、パッと顔を上げて麗人を見た。思いがけないといった風で尋ねる。

「好きなように?」

「うん。」

「人の子?」

「うん。」

 女神様は、そんな簡単な会話だけでぱあっと喜色を満面に乗せてこちらに振り向いた。

「あなた、お名前は?」

「はい、雪花ソルファです。」

「雪花、かわいいお名前ね。冬が終わるまで、仲良くしてほしいな。」

「はい!!」

 かわいいお名前ね、という女神様がとてつもなくかわいいと思った。田舎娘一人でこんなに喜んでくれるのだから、麗人も役得だな。





 

 女神様は、それじゃあ雪花のお部屋を用意しなきゃ、とふわりと立ち上がった。麗人が先導するのを女神様の後ろについていくと、花園を抜けて回廊に上がり、途中で曲がったところで細かな彫りの装飾が施された両開きの扉を開けて案内された。中はというと、扉の風格に続いて見るからに高級品の調度と装飾、壁には柔らかい筆致で花鳥が描かれ、それでいて全体的にまとまっている。素人ながら、これを上品というのだ、と感嘆のため息をこぼした。女神様の自室なのだろう、使用人の部屋は目立たないように隠されているのだと思ってキョロキョロと探してみた。と、女神様が麗人の腰のあたりを少し引っ張って、何かこそこそと囁いた。

 麗人に尋ねられる。

「ここはどうだ?」

「はい、私の通り道はどちらに」

「もう入って来ているぞ。」

「それはそうですけど、使用人ですから別の通り道とか」

「そんなものは無い。この一部屋、お前用だ。」

「…え?!このお部屋を使うんですか?!わたしが?!」

「もう少し広い方がいいかしら、他も見てみる?」

「いやっ十分っ十分すぎます!!」

「本当?良かった。」

 いったい女神様はなんの心配をしていたのかと驚かされる。この部屋に通されて感激しない女があるだろうか。一時でも、自分が姫様のような気分になれてしまう。


 いよいよ夢のようだ、と涙が出そうだった。

 良い話が、良い話で終わるはずがない。

(きっと何か落とし穴があるんだ。これからきっと、あの報酬に見合うだけの激務がやってくるに違いない。)

 だけれども、それでもいいかと手放しで夢見心地にどっぷりと浸かる。

 女神様に促され、見たことのない食べ物を満腹になるまで食べ、いい匂いのする寝床に入った途端にするすると眠りについた。

 一生分の幸運を使い果たしてしまったんじゃないかと恐くなるくらい、幸せな気分だった。



 生まれた村で、ずっと同じような日々を過ごしてきた。ただ忙しくて、毎日毎日追われるように動き続けてきた。

 それが、なんという大きな転機だろう。素晴らしい一室を与えられ、優しく可愛らしい女神様にお仕えする。歩けども步けどもさまざまな花の香りが漂い、見渡せば美しい宮殿、空には金の砂が撒かれている。

 時の流れすら違っているみたいだ、と思った。

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