第4話
ふと、喉の辺りの強張りが解けた感触がした。
「あのう」
ああよかった、声が出るようになっている。まだ首から下は勝手に動くのだが、とりあえず目と口は自分で動かせる。あのまま体中が他人のもののような感触がずっと続いたらどうしようと思っていた。
獣は門から少し離れてから、やっとこちらを向く。
「なんだ。」
なんだと問い返されてしまうと、何から聞けば良いのかわからない。
ここはどこですか。
あなたは誰ですか。
これからどこへ行くのですか。さっきの男は何ですか。私は娘娘からの献上品って聞こえましたが。ていうか娘娘って誰ですか。結局、私の主人は誰なのでしょうか。
頭の中が大混乱だった。
獣は足を止めはせずに、真っ白な道に踏み入れる。後ろについて進んでいくと、ふわりと少し浮いたような、眠りに落ちる時のような心地良さを感じて驚いた。
そして、身体が勝手に来た方向を振り返る。ひどく痛い思いをしたけれど、不思議と今は痛みも無かった。
出てきたときにくぐった巨大な門は、大岩の中に聳え立っていた。
「今まで居たのは
「立派なお名前で。天帝様のお住まいと同じ名前。」
門を潜る時には、空に突き刺さるように巨大だと思いながらくぐった。だが一歩白い道を進むと、嘘のように遠く小さく、すうっと離れていってしまって、あっという間に見えなくなってしまった。
獣は、少し首を傾げたように見えた。
「お前がさっきまで居たのが、崑崙丘だ。」
もうすっかり霧の中にでも入ってしまったようで、でもとにかく明るい。眩しいくらいだ。
「田舎者だからってからかわないでください。西王母様は西のずっとずっと遠くにある高い高い山の上の崑崙丘に住んでおられると」
言いながら、そういえばすごい角度で山の斜面を馬車が駆け上がっていたな、と気づいた。
(山の上にあんなだだっ広い平らな花畑が広がっているもの?天にも届きそうな建物があんなにぽこぽこと?うちの村なんて小屋ひとつ建てるのにも大騒ぎなのに?)
それは、とてつもなく高度な技術の結晶の様に思われてきた。それこそ、神がかりとでもいうような。思えばあの馬車も、神業のように荷を軽々と運び、外の景色が霞むほどの速さで大地を走り抜けていったが、一度も車がガタガタと悲鳴をあげることはなかった。揺れも分からなかった。
おかしいじゃないか。うちの村の道なんて、手押し車もがたつくくらいの砂利道なのに。
「本当に?!今まで居たところが?!崑崙丘だったんですか?!」
「嘘をついてどうする。」
「ほんとに西王母様のお住まいの崑崙丘にいたんですか、私は」
「そうだ。」
「それって、つまり、さっきまでの場所に居たのはみんな神様か仙人様だったってことですか?」
「そうだな。」
「じゃああなた様がご挨拶に行かれた娘娘は本当に本当の西王母様で」
「そうだな。」
「じゃあ、じゃあ、あの公主様は西王母様の娘さんで、召使いも仙女?!」
「麗華公主のことか。西王母の七天女の二番目だな。」
「なんかすんごい綺麗だったのは、神様だったからなんですねぇー!なるほど納得!!」
頭が回り始めると、嫌なことにも考えがいくものだ。
「あぁー、さっきの腐れ野郎もなんかの仙人ってことですよね…仙人様って立派な御方たちって思ってたのに。」
「娘娘の領土のうち南方を治める、趙氏の跡取りの高真君だな。」
「はは、嘘でしょ…うちの村の守り神様だぁ…」
ここまで聞いて、不思議とすんなりと納得した。村はいつでも貧しかった。心優しい仙人様なら、飢え死にする赤子をどうしただろうな、と切なくなった。
「貴方様を、なんとお呼びすればいいですか?」
「
「はい。」
「山間の村の育ちだと聞いたが」
「はい。」
「虫には慣れているな?」
「虫?虫は、はい、まぁ。好きってわけじゃないですけど」
「特技は?」
「とくぎぃ?踊りとか歌ってことですか?そんなんできるわけないでしょ、いちおう官吏の家系ではありますけどねぇ、うちは貧乏子だくさんでずーっと子守して生きてきたんですから」
「ふうん?」
「毎日毎日朝から飯炊きして洗濯して
「それだそれ。針は使えるな?」
「あぁ〜、そういえば針仕事が得意な娘って…言っときますけどわたし」
そこまで言って、ハッと気がついた。
そもそも針仕事といったって絢爛豪華な縫い物刺し物が出来るわけじゃない。日々の暮らしのために、穴の空いた衣類を繕って繕って繕って…。これを得意といっていいのか。いくら鬼だろうと、姫様が想像する『針仕事』とはかけ離れているんじゃなかろうか。
だが、ここで正直に言ったらどうなる?
希望していた類いの娘ではなかったと落胆させると、運が悪ければ今ここで怒りをかうことにもなりかねない。
(言ったら…食われる?!)
「言っときますけど私…私、針仕事大好きです!」
獣はまた首を傾げて、「ふうん?」と軽く流された。
(良かった、とりあえず怒ってなさそう!)
いつの間にか仄暗い回廊のような場所に辿り着いていた。
「ここはなんだか宵の入りみたいに昏いですね。さっきまで眩しかったから余計に。」
「暗いのは苦手か。」
「いいえ!ただ、もう外の仕事は終わりだなってくらいですね。」
「それならいい。お前は冬の終わりまでここに住むことになる。」
そう言われて、きょろきょろと辺りを見回した。そして言葉を失った。
(わ…)
頭上には金銀をこぼしたような星空が広がっていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、どこまでも美しい景色が続く。それは崑崙丘の花園にも劣らない、いや、程よく甘い香りまで加味すればずっとこちらの方が心地よいとすら思わせる、正しく絶景の花園だった。
一際煌びやかな大輪の花が風に揺れて、ふわりと花畑の中に立ち上がる。
「お帰りなさい」
幼子の笑い声のように清らかなその声に、獣は足取り軽く歩み寄って行く。やがてほとんど駆け足で獣は遠ざかっていった。
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