奪還編

26 緊急事態


 パンプスを掠めた指先を、穂浪は茫然と見下ろした。確かにかかとに触れたはずだ。それなのに、瞬きをした直後、逢坂の姿はなかった。一度だけ聞こえた地球外生命体らしき声も聞こえなくなっていた。


「すみません! 久我さんいますか!?」


 穂浪が駆け込んだのはFPLのラボだった。走ってきた勢いのまま腹式呼吸で尋ねると、その場にいた研究員たちが一斉に振り返った。何事かと驚いた顔をしている。


 地球外生命体専門対策局の花形とされる機体操縦室のパイロットが、FPLのラボを訪れることは基本的にない。しかも、穂浪の身なりときたら、全速力で来たため汗だくで、服も髪も乱れている。そんな私服のパイロットがアポもなく大声で室長補佐を呼び付けたのだ。驚かれるのも無理はない。


「俺に何か用ですか?」


 呆気に取られている研究員たちの奥から、久我がゆっくりと進み出た。


「ちょっと来てください」


 何の説明もしないまま、穂浪は久我の手首を掴んだ。


「どうしたんですか?」


 穂浪に引っ張られるがままラボを出ながら、久我は尋ねた。何かあったのだろうとは思ったが、普段の穂浪の言動を振り返ると、その内容が、FPLに押し掛けてまで室長補佐を連れ出すほどのものか、甚だ怪しい。


「緊急事態です」


「緊急事態?」


 怪訝な顔をする久我に、穂浪はそれ以上説明をしなかった。そこが大勢の局員が行き来する廊下だったからだ。穂浪は久我を屋上まで引っ張ってきた。そして、誰もいないことを入念に確認した後、


「逢坂さんが地球外生命体の集団に連れ去られました」


 と、単刀直入に告げた。


「は?」


 久我は目が点になった。


「さっき、局に来る途中で逢坂さんと会ったんですけど、そのとき、地球外生命体に逢坂さんが話しかけられて。逢坂さんには地球外生命体の声が聞こえたり姿が見えたりしたんですけど、俺には声も聞こえないし姿も見えなくて。あっ、でも、ミッシュを連れてくれば逢坂さんを返すって言ってたのだけは聞こえて……」


「ちょ、ちょっと待ってください! ……え? 今、地球の領域圏内に地球外生命体の集団がいるんですか?」


「そうです。10体くらいって逢坂さん言ってました」


「でも、そんな報告どこにも……」


「姿が見えてないだけです。そういうフィルターをかけて見えないようにしているんじゃないかって逢坂さん言ってました」


「で、その地球外生命体たちに逢坂が襲われたと?」


「はい」


「逢坂は今、どこにいるんですか?」


「分かりません。地球外生命体と一緒に消えちゃったので」


「消えチャッタ……?」


「はい、たぶん逢坂さんを抱えて、どっかに飛んでっちゃったんだと思います」


「どっかに飛んでっちゃったって……穂浪さんもその場にいたんじゃないんですか?」


「そうなんですけど、瞬きしてる間に消えちゃったんです」


 消えちゃっただの、飛んでっちゃっただの、まるでおとぎ話の一節のようなことを言う穂浪だったが、その純粋な瞳を見れば、真面目に話していることは久我にも理解できた。だからこそ、逢坂が地球外生命体の集団とともに行方不明になったという現実を突き付けられたように感じた。久我はガックリとその場に座り込み、「はあぁぁああぁああ」と大きくため息を吐いた。


「……奴らの要求は、ミッシュを連れて来ることでしたっけ?」


「はい。そうすれば逢坂さんを返すって言っていました」


「奴らはミッシュをどうするつもりなんですか?」


「分かりません。俺には地球外生命体の声がほとんど聞こえなかったので……そういえば、逢坂さんが『ミッシュが死刑』って言ってました」


「死刑?」


「はい。たぶん地球外生命体から説明されたんだと思います」


 持ち得る情報が少な過ぎることに、久我はさらに頭を抱えた。10体程の地球外生命体が集団で地球に来ているというだけでも大問題なのに、こちらに姿を見せないフィルターだの、逢坂を連れ去っただの、ミッシュを連れて来るように要求しただの……一体何から対処すればいいのだ。


「奴らが逢坂に危害を加える可能性は?」


「見た限り危害は加えていませんでしたが、正直分かりません」


「そうですか。では、当事者に聞いてみましょう」


「当事者?」


 首を傾げる穂浪に詳しい説明をする時間さえ惜しかった。一刻も早く逢坂の救出に向かわねばならない。久我は歩き出した。


「行きますよ」


 その場に突っ立ったままの穂浪を、久我は振り返った。逢坂だったら何も言わなくても付いてくるんだけどな。と思ったが、口には出さなかった。


「行くってどこに行くんですか?」


 慌てて追いかけながら、穂浪は尋ねた。久我は歩き出しながら答えた。


「地下室です」



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