第36話 経緯③

 忽然こつぜんと、十字架に組まれた大理石の柱から天使の像が消えたのは、まりんちゃんが、少しだけ力を入れて短剣を抜いた直後のことだった。突然のことでびっくりし、まりんちゃんは茫然ぼうぜんとその場に立ち尽くす。

「ありがとう、君のおかげで私は再び、自由を手に入れた」

 聞き覚えのある、若い男の声がした。その方向に、まりんちゃんが身体からだの向きを変えると……耳にかかるくらいの、銀鼠色の髪に優しい目をした、二十代くらいの美しき青年の姿が、ぎょっとするまりんちゃんの視線の先にあった。


「さぁ、今度は君の願いを叶える番だ」

 青年はそう言うと、おもむろに近付き、まりんちゃんの手を取って、右手の甲にキスをした、次の瞬間。灰色の光が迸り、十字架と六芒星ろくぼうせいのペンタクルの印が、まりんちゃんの手の甲に浮かび上がったではないか。

「これは、君が私と契約をした印だよ。私と契約関係にある間は、堕天使にしか扱えない、堕天の力が有効となる。堕天の力は、使い方によって力が変化する特殊能力だ。君の手で、三人の子供達と、子供達を護る彼を救ってやってくれ」


 優しく微笑む青年から堕天の力と言う名の、特殊能力を授かったまりんちゃんは念を押すように尋ねる。

「私との約束……忘れていないでしょうね?」

「忘れてはいないさ」

 微笑みを絶やさず、青年は余裕のある口調で返答をするとおもむろに右手を、左手の甲に翳す。

 すると、まりんちゃんの右手の甲に浮かび上がったのと同じ印が青年の左手の甲にも浮かび上がった。


「この町と地球……そして地球に住む全人類に危害を加えない、誰一人として殺さない。君と交わしたこの約束はいま、この手に浮かぶ印に刻まれた。それにより、私は君との約束を破れなくなった。これでもう、安心だろう?」

「そうね……」

 余計なことは言わず、凜然と青年を見据えるとまりんちゃんは、静かに返事をするに留まった。

 彼を信用するにはまだ、確たる証拠が不十分だわ。慎重に、気を張っていないとやられるわね。

 内心、まりんちゃんはそう思ったのだった。


***


「――そう言った経緯で、私はいま、堕天使と契約をしているんです。そのおかげで堕天の力が使えるようになって……」

「それで、祠の管理人さんが張った結界を破ることができたのか。きみが……堕天使にしか扱えない、その力を使ったから」

 表情がにわかに険しくなった俺はそう、言葉を繋げると、

「きみから、使い方によって変化する、特殊能力を使ったって聞いた時にそうじゃないかって思ったんだ。そんな特殊能力は、堕天の力以外に考えられないから。

 けれど、どうして……そんな大事なことを、得体の知れない俺に告白してくれたんだい? ひょっとしたら俺は……きみにとっては敵になるかもしれないのに」

 疑問に感じていた、そのことについて尋ねた。


 まだ知り合ったばかりなのに、誰にも知られてはならない秘密を打ち明けたのはなぜなのか。彼女から直接、その理由を聞きたかったのである。俺からの質問に、まりんちゃんは真顔で返答。

「なんとなくですけど……私は、今のあなたが敵に思えなくて。たとえそうだとしても、私が気付かないうちに味方になってくれそうな……そんな気がするんですよね」

 なにげにふと、優しく微笑んだまりんちゃんの目をまっすぐ見詰めたまま、俺は目を瞠った。


 俺よりも年下の女の子が気遣って、いま抱えている素直そっちょくな気持ちを打ち明けてくれた。俺は、事の成り行きによっては味方どころか、きみにとって敵になるかもしれないのに。

 状況に応じて平気で嘘をくし、見た目は優しい人間だけどその気になれば冷酷な人間になれる一匹狼だ。そんな俺を、面前にいる彼女は、信用でもしたのだろうか。もし、そうだとしたら……

「俺は、赤ずきんちゃんのきみが思っているほど、優しい人間じゃないよ」

 ふと、優しく微笑んで否定した俺は、

「けれど、そんな俺に本当の事を打ち明けてくれたのは嬉しいよ。ありがとう、俺を信用してくれて」

 率直に気持ちを打ち明けたまりんちゃんにこたえるため、感謝の気持ちを伝えた。嘘偽うそいつわりのない俺の返事を受けて、まりんちゃんはにっこりと笑ったのだった。

 


 美花町みはなまち三丁目。隣の町に当たる美舘山町の境目にある商店街は昔、近所に住む常連客や子供達でにぎわい、どの店もみな栄えていた。

 しかし、少子高齢化が進む現在、後継者がいないことに加え、徐々に客足が減り、肉屋に八百屋、魚屋や駄菓子屋、金物屋と書店などの個人経営の店が次々と閉店。かつて栄えていた商店街は、時代の流れとともにさびれたシャッター街へと移り変わっていった。

 そんな街の一角に、昭和レトロな雰囲気漂う小さな花屋がある。英語でヒマワリを意味する『サンフラワー』の名前が付いた花屋には、七十過ぎの高齢男性がいて、五十年に渡り小さな店を経営してきた。が、高齢により体力の限界を感じ、男性は断腸だんちょうの思いで店を閉めることに。

 まりんちゃんと別れ、新森市内の海山町から縦浜たてはま市内の美花町へと瞬間移動した俺が『サンフラワー』の前を通り掛かったのは、まさに店主の高齢男性が店のシャッターを下ろしている時だった。


 両手でシャッターを閉める店主の後ろ姿があまりにもさびしかったので、なんだかいたたまれなくなった俺は、男性に声をかける。

「こんにちは」

 俺の呼び声に気付いた店主の男性が振り向いた。七三分けの白髪に眼鏡をかけ、皺が刻まれた顔は、それなりに年齢を重ねていた。

 白色のパンツにダッフルコートを着込み、黒髪に、髪と同じ色の目をした青年をひとめ見た途端、男性は思い出したように話しかける。

「君は確か……最近まで、ちょくちょくうちの店を利用してくれていたお客さんだったね」

「はい。その節は、お世話になりました」

 俺はそう、控えめに笑いながらも返事をした。結社からの指令を受けて、冥界から現世に降り立つことが多い俺は、指令を遂行した後は必ず花屋に立ち寄り、対象者だった人の墓前に献花をしている。死神にしては珍しい、仕事終わりのルーティンである。

 男性の口振りから察するに、現世で本業をする『もう一人の俺』が、つい最近まで『サンフラワー』を利用していたらしい。なので、店主の男性は、常連客の一人として俺のことを覚えているようだった。

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