第35話 経緯②

 一般人として、現実の世界でいつもと変わらぬ生活を送る。そしていつの日にか、立派なフラワーデザイナーになれる日を夢見ているからこそ、首をつっ込む気はなかった、筈なのに……気がつくと、町外れに聳える、古い日本家屋の屋敷前まで来ていた。

 この屋敷は江戸時代に建てられたもので、先祖代々、受け継がれてきた長者が住まう屋敷だった。

 そして、屋敷の地下には祠があり、天と地を揺るがすほどの強大な力を持つ堕天使が封じられている。

 堕天使は、町に災いをもたらす負の象徴として恐れられており、屋敷を管理する長者は、先祖代々続く、強大な霊力を持つ退治屋としても知られ、先祖が封じた堕天使が再びこの地に復活することがないよう、祠の上に屋敷を建てて監視をしていた。


 海山町に古くから伝わるこの噂話がもし、本当だったら加勢できるかもしれない。自力で結界を張り、あの男から三人の子供達をまもっている……あの、美少年に。

 まりんちゃんが見た限り、僅かだが結界にヒビが入っていた。男の攻撃を受けて生じたヒビであれば、少年の結界は、そう長くは持たない。

 堕天使の封印を解けば、特殊能力を持たない、単なる人間であっても、あの男と戦える筈だ。まりんちゃんはそう考えたのだ。これが後に、浅はかな考え方だったと後悔することになるのだが。



 まりんちゃんは意を決し、歴史を感じる、立派な門構えの屋敷の敷地内へと、足を踏み入れる。古びた木戸を押して、静まり返る敷地内の奥へと進んでいくと、庭園を構えた長者屋敷の全貌ぜんぼうが姿を現す。まりんちゃんはその前で立ち止まった。

 そこはすでに廃墟はいきょと化していた。長者が住むに相応しい、大きくて立派だったかつての面影を残すこの屋敷の所有者は、十年前に病死。以降、ずっと空き家となっており、廃墟と化した屋敷の外壁の所々はヒビ割れ、瓦屋根かわらやねや庭が荒れ放題になっていた。

 長い間、風雨にさらされ続け、手入れが行き届いていない荒れた屋敷と庭園、まっ昼間だが、今にも人ならざる者が出てきそうな、不気味で陰湿な空気が漂っている。

 本当に……あるのかな? こんな場所に、堕天使を封じた祠なんて……

 お化け屋敷よりも怖い雰囲気を纏う屋敷におののきながらも、勇気を奮い起こし、まりんちゃんは屋敷の敷地内を調べてみることにした。


 屋敷の正面玄関から左回りに屋敷を半周すると、地下へと通じる石段が姿を見せる。石垣に囲まれた石段を覗き込むと、夜の帳よりも遙かに深い漆黒の闇が広がっているため、先が全く見えなかった。今にも吸い込まれそうな暗闇に、まりんちゃんはごくりと生唾を呑み込む。

 このままだと怖くて足がすくんでしまうので、自力で結界を張り、身を護っているあの美少年の顔を思い浮かべながら一歩一歩、石段を降りる。

 スマホの灯りを頼りに石段を降り、細い通路をまっすぐ進むと、鉄製の扉が姿を現した。どうやらここが、地下室への入り口らしい。

 なんとも不気味さ漂う扉の前で立ち止まり、再び生唾を呑み込んだまりんちゃんは、恐る恐る手を伸ばし、分厚い埃で覆われた扉を開けた。そこはまるでギリシアの首都、アテネにある古代ギリシアの、パルテノン神殿の一部を切り取ったような造りの広い、大理石の祠だった。


 全面に広がる床の中央には、十字架に組まれた大理石の柱がある。まりんちゃんの目は、十字架に組まれた柱に注がれた。びた短剣で柱に打ち付けられた美しき青年の天使の像が、天窓からす陽光に照らされ光り輝いている。

 まりんちゃんは、吸い寄せられるように大理石でできた祠の中に足を踏み入れると翼があり、いかにも天使と思わせる衣を着た美しい青年の像の前で立ち止まった。

 全身が白色の像となっているがゆえに、その正体が天使であること以外は不明だが彼こそが、海山町に古くから伝わる噂話に出てくる堕天使なのだろう。

「もしも……あなたが堕天使なら、私の願いを聞いて。自力で結界を張ることができ、敵と戦う武器をつくり出す力があればどうか……その力を私に譲って欲しい。三人の子供達と……子供達を護る彼の手助けがしたいの」

 切実たる願いだった。堕天使の力があれば、少年に加勢することができる。三人の子供達を救ってあげられる。その一心で、まりんちゃんは切願した。

 辺りが静まり返っている。白色の天使の像は、まったく動く気配がない。やはり、単なる噂話だったのか。そう思い、肩をすぼめて白い天使の像に背を向けた時だった。


――その願いを叶えたければ、私の言うことに従え――


 心地好く澄んだ若い男の美声が、どこからともなく聞こえた。

 今の声は……どこから?

 突如とつじょとして聞こえて来た男性の声に、辺りをきょろきょろとしたまりんちゃん、はたと思い当たり、ゆっくりと振り向いた。

 まさか……ね。

 背にした天使の像に視線を向けながらも、動揺するまりんちゃんは心を落ち着けようとした、その時。再び、心地好くも澄んだ、若い男の声が聞こえた。


――私の左胸に刺さる、錆びた短剣を、君の手で抜いてくれ。そうすれば、切実たる願いが叶うだろう――


 まりんちゃんは確信した。今の声の持ち主はきっと……白い天使の像だ。

 天使が……私に語りかけてきた。

 願いを叶える代わりに、自身の左胸に刺さる、錆びた短剣を抜いてくれと、交換条件を持ちかけてきたのだ。

 噂話が本当なら、白い像になっているこの天使は、町に災いをもたらす堕天使だ。

 彼の言うことを聞いて、左胸に刺さる錆びた短剣を引き抜いてしまったら……封印が解けて、堕天使が復活してしまう。それなら……

「約束して。この町と……この地球と、地球に住む全人類に危害を加えない、誰一人として殺さないって。約束を厳守げんしゅしてくれるのなら、あなたの指示に従うわ」

 像の前まで闊歩かっぽし、毅然たる態度でまりんちゃんはそう、天使の像に掛け合った。


 ――約束しよう……この町と地球そして、全人類には手を出さないと――


 白い天使の像がそう言って、まりんちゃんと約束を交わす。そうしてまりんちゃんは、白い天使の左胸に刺さる、錆びた短剣に手を伸ばし、引き抜いたのである。

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