第8話 動揺

 細谷くんとの契約が解除された。それも、強引なやり方で。セバスチャンさんに抱きしめられたまま、まりんちゃんは底知れぬ恐怖に駆られていた。

「怖いですか?」

 まりんちゃんの心を見透かしたセバスチャンさんがそう、目を落としながらも静かに尋ねる。

「怖くない。と言えば、嘘になるわね」

 セバスチャンさんの胸に左頬をくっつけたまま、視線を下に向けたまりんちゃんはそう、冷静に返答。

 フードを被った赤いロングコートの、華奢きゃしゃなまりんちゃんの身体からだが恐怖で震えている。まりんちゃんからいろいろな感情が伝わり、セバスチャンさんは切ない表情をすると、愛情を込めて慰めた。

「怖がらなくても大丈夫。今はまだ、慣れていないだけ……時が経てば、すべて解決します。それまでの辛抱ですよ」

「やけに、優しいじゃない」

 そう、返事をするまりんちゃんの声は、刺々しい。ふと微笑んだセバスチャンさんはやんわりと応じる。

「男性には厳しく、女性には優しく。それが私のモットーですので」

「どこまでも、紳士的な人」

 冷たい笑みを浮かべて、まりんちゃんは皮肉った。その声は若干、柔らかい。セバスチャンさんに心を許したわけではない。ただ、知られざる彼の一面に触れたような気がして、なんとなく安堵しただけだ。


「それはそうと……」

 頬笑みを絶やさず、セバスチャンさんが唐突に話を切り出す。

「晴れて両想いとなった細谷くんとは……どこまでいってるんです?」

「……っ?!」

 まりんちゃんにとってそれは、思いがけない質問だった。不意打ちを食らい、衝撃を受けたまりんちゃんの頭が真っ白になる。

「どこまでって……い、言えるわけないじゃないですか!」

 セバスチャンさんからの質問を受けて、憤慨ふんがいしたまりんちゃんは叫んだ。その反応を見て、セバスチャンさんは楽しむように口を開く。

「ならば、当てて御覧に入れましょう」

 セバスチャンさんはそう言って微笑むと、おもむろに片手を、まりんちゃんの右頬に添える。清潔な白い手袋で覆われた、不思議な手の感触に、条件反射で見上げたまりんちゃんの耳元で、体勢を低くしたセバスチャンさんが何事かささやく。たちまち赤面したまりんちゃんは思わず両手を伸ばし、身体を遠ざけた。


 ――細谷くんとは高校三年生の頃に、ファーストキスまでした仲ですね――


 恥ずかしさで赤面するまりんちゃんの耳元で確かに、セバスチャンさんはそう囁いた。

 なぜ、どうしてそんなことを、セバスチャンさんは知っているのだろう。

 まりんちゃんがまだ、高校三年生だったあの頃に経験した、甘酸っぱい青春の一ページを、どこかで密かにのぞき見ていたのだろうか。それとも……

 そこまで考えて、まりんちゃんははっとした。

 まさか……見られていた? 堕天使に殺されたあの日に起きた、思い出すのも恥ずかしい出来事を……

 嫌な予感がしたまりんちゃんを、セバスチャンさんが意地悪な笑みを浮かべて追い詰める。

「そんな相手がいながら、あなたはもう一人の男性とキスをした……まるで、紅蓮ぐれんほのおを身に纏っているかのような、真っ赤な着物を着た紫紺の髪の男性と。もっとも、それは不可抗力なのであなたに非があるわけではありませんが……今日、この場所であなたに掛けられた呪いを解いた彼がこのことを知ったら、どう思うでしょうね?」

 すさまじいショックを受け、完全に思考回路が停止したまりんちゃんは言葉を失った。

 セバスチャンさんは知っている。シロヤマが掛けた呪いを解くため、細谷くんがまりんちゃんの額にキスをしたことを。この場所で、細谷くんに告白されたことも。それだけではない。今から半年前に起きた出来事も、セバスチャンさんは知っている。

 おそらく、誰にも気付かれない場所で密かに、セバスチャンさんは覗き見ていたのだろう。

 恐怖すら覚えるセバスチャンさんの大胆不敵な言動に、まりんちゃんは激しく動揺するのだった。

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