第6話 未完成

 ありがとー、と小さく礼を言った響久が、ゆっくりと顔を動かす。

 じっと室内を眺めていた赤い瞳が、絵李の方に向けられた。


「絵李ちゃんはすっごくよく観察して描いてるんだろうなあって思った。アイを取り払ってまで、写実性を求めてるね」


「……私にも、アイはあるってこと? 描いてないだけで」


 アイが足りない。それは、絵李にアイが備わっていないからだと思っていた。

 絵をよくするためには、まずは絵李が何かを手に入れないといけない、と。


「誰にでもあるよー? 絵李ちゃんもあるでしょ、実物よりもよく見える時とか」


 歌うより軽く言葉を紡ぐ響久は、簡単に絵李の予想を壊してくる。

 楽器の音に溶けていく声が、特別なもののように聞こえる。

 絵李は深く息を吸い、そんな響久をじっと見つめてみた。


 整った顔は、誰が見ても綺麗だと言うだろう。

 けれど絵李が描きたいと思ったのは、そんな単純な理由ではない気がする。

 もっと他の何か、ぐっと心を惹く魅力があったはずだ。


「そのいいと思ったことを、そのまま描けばいいんだよ。常識外れでもいいから、とにかく魅力的に、見えたままに」


「見えたままに……?」


 響久の言葉を聞いて、絵李ははっとした。

 心当たりがあったのだ。

 絵李がいいと思った光景にあって、絵李の描いた絵にはないものに。


「描きたいって思ったものがあるから、ここを画題に選んだんでしょ?」


 熱心に絵を描く響久が、綺麗だと思った。

 ふんわりとした光を受けた白い髪が、藍色の影の差す横顔が。

 理屈じゃ説明できないあの煌めきを――絵李は、ずっと探していたのかもしれない。


「勿論。私は、私が見惚れた景色しか描かないわ」


 今までの響久の問いに少なからず戸惑いを見せていた絵李だが、今回はきっぱりと言い切ることができた。

 絵李の答えが気に入ったのか、響久はへぇ? と笑みを深める。


「いいと思った光景を写真に撮って、脳に焼き付けて、描くの。うっとりしちゃうくらい綺麗だと思った物を」


 にやりと笑った響久は、あからさまに首を傾げてみせた。


「それがここ? 絵李ちゃん、ちょっと見る目なかったりするー?」


「あるわ。それに私は『あなたが描きたい』って言ったのよ。あなたが綺麗だから」


 絵李が笑い返すと、響久は驚いたように目を見開いた。

 余裕のある笑みは完全に消えていて、かなり驚いているのがわかる。


「ふふっ、忘れたの? さっき言ったばかりなのに」


 響久の反応が面白くて、絵李の口から笑いが零れた。

 ずっとへらりと笑っていたのにこんな顔をするとは、少々以外だ。


「いや……覚えてるけど……。冗談だと思ってた」


「あんなに頑張って描いたのに!?」


 呆然と呟くように言う響久に、絵李は彼以上に目を丸くした。

 絵李は始めから本気で言っていて、冗談めかしたつもりはない。


「よく言われるけど、絵李ちゃんだと何か照れるなあ」


 白髪赤目という特徴はかなり目立つだろうし、何より顔立ちが整っている。

 掴みづらい笑みを取り戻した響久は、少し照れたように頬を掻いた。

 言われ慣れているのかもしれないが、意外と初心な反応が返ってきた。


「描きたいって思わせてくれた魅力を、しっかり描けばいいんだよって言おうとしたんだけど……何か恥ずかしいかも」


「――ありがとう」


 絵李が薄く微笑んで礼を言うと、響久は小さく首を傾げた。

 何のこと? なんて思っているようだ。


「あなたのお陰で見つけられたみたい。私は――私の、『アイ』を」


 真っ直ぐに見つめてくる絵李を見て、響久はぱちぱちと目を瞬く。

 曇りのない黒い目が、響久の顔を映している。

 少し大人びた顔は、ここへ来た時よりも晴れやかに見えた。


「……そっか、見つけたんだあ。よかったね」


「ええ。今度こそ、アイを描いてみせるわ」


 絵李の声からは自信が溢れている。


(……本当に、見つけたんだ)


 迷いのない表情と声に、響久は内心でほっとしたように呟いた。


「もう一度さっきみたいにしててくれない? さっきの絵に描き足したいの」


 ぐっと身体を伸ばした響久は、黒板の文字を消す。


「いいよー。オレも続き描きたいし」


 そういう響久の笑顔は今日で1番眩しく見えた。

 にっと吊り上げた唇の隙間から、少し尖った犬歯が覗いている。


 うっすらと残ったfineの後は気にせずに、教室の隅の椅子に座る。

 放置されていた筆とパレットを手に取ると、キャンバスに向き直った。


「描けたら、見せてね」


 ちらりと赤い目が絵李を見たが――その視線はすぐに絵の世界に入り込む。

 ふっと顔つきが変わり、真剣に筆を動かし始めた。


「ええ、嫌でも見てもらうから」


 絵李の言葉は、響久の耳に届いただろうか。

 響久の目はキャンバスだけを捉えていて――キャンバスもまた、響久だけを見ているのかもしれない。

 まるでそこだけ、世界から切り離されたようだ。


(うん、今なら絶対、一番いい絵が描けるわ)


 声にも出さずに自分を鼓舞し、絵李も響久を習うように筆を取った。


 絵李のことなど忘れたかのように絵だけを見つめる赤い目。

 繊細に筆を動かす、少し汚れた大きな手。

 柔らかい光を受ける白い髪と、綺麗な横顔に差す藍色の影。

 見れば見るほど綺麗で、つい見惚れてしまいそうだ。


 いくらかの時間、じっとその姿を見つめ。

 ようやくパレットに絵具を出した。

 鮮やかなレモン色に、筆先で掬った少しの赤色を加える。

 たっぷりの水を含ませた筆で混ぜると、眩しい光がじんわりと解けた。


 明るい色に染まった筆先を、そろりと画用紙につける。

 ふわりと広がった光が、ゆっくりと滲んでいった。


 そうして足りないものを、丁寧に加えていく。

 まるで世界から切り離されたような光景を、本当に切り取っていく。


 黄色が終われば、次は藍色。

 細い筆に持ち替えて、繊細な影を描写する。


 絵李には、響久が凄く綺麗に見えた。

 言葉では説明できないほど、魅力的に見えた。


 その魅力を絵に落とし込めていない。

 絵李の絵は、ただ『響久のいる美術室の光景』を映しただけ。

 本当に描きたかったのは、『響久』だというのに。


(私、まだまだだったみたい)


 気が付いてしまうと、今まで自分がとてもつまらない絵を描いていた気がしてくる。

 それでも、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ晴れやかな気分だ。

 今まで磨いてきた技術が、無駄になったわけではなかったのだから。


「――描けた?」


 夢中で描いていると、ふっと低い声が耳を突いた。

 まるで絵李のことなど忘れたように描いていたが、気にかけていてくれたようだ。


「もう少しよ」


「そっか」


 絵李が顔を上げると、響久と目が合った。

 構わずに描き続ける絵李を見て、響久は困ったように眉を下げる。

 一番細い筆で細部を描き込んでから、全体の印象を見る。

 また描きこみ、確認し――。


「――できた!」


「おおー。おめでとうー」


 筆を置いたと同時に、絵李は大きな声で言った。

 画板を持った両腕を目いっぱい伸ばし、描けたばかりの絵を眺める。


(……うん、よく描けてる!)


 ――今まで絵李が描いたどの絵より、ずっと。

 技術が上がったわけではない。特別リアルに描けたわけではない。

 なのにそう思うのは――この絵に自我が、アイが詰まっているからだろうか。


「ほら見て響久! すっごくよく描けたから!」


 ぱっと立ち上がると、倒れかけた丸椅子がガタッと揺れた。

 その様子に気持ちの早まりを感じ、響久はクスリと笑う。


「かわい。見たいのは山々だけど――時間大丈夫?」


 響久はポケットからスマホを取り出し、その画面を絵李に見せる。

 表示されたのはロック画面には、寛いでいる様子の猫が表示されている。

 ペットなのだろうか、意外にも可愛らしい画像を使っているようだ。


「時間……」


 響久の言葉を思い出し、絵李はつい背景に向いてしまった視線を動かす。

 画面の中央、少し上気味に表示された数字は、15:05と並んでいた。


 確か――交流を終えて第1美術室に集合する時間は、午後3時。


「……って、過ぎてるじゃない!」


 気が付いた途端、絵李の声が焦ったように大きくなる。

 2人とも昼食すら忘れていたなんて信じられない。

 集合時間を5分も過ぎてしまっている。皆とっくに集まって、絵李を待っているかもしれない。


「だから大丈夫? って聞いたんだよ」


「大丈夫なわけないでしょ!? もっと早く言ってよ!」


「オレも今気づいたんだって」


 絵李は響久の言葉も半分無視して、慌ただしく片付けを始めた。

 からからと笑っている響久だが、3時だと気が付いたから描けたか聞いたのではないのか。


(頑張って描いてたから、邪魔しちゃ悪いと思ったんだよね。それに――)


 ――もう少し、このままでいたかったから。なんて。

 おかしな言葉が喉を通りかけ、響久はぎゅっと口を閉じた。

 とりあえず、と画材を鞄に詰め込んでいる絵李を見て、薄く笑みを浮かべる。


 絵李を見ていると、不思議な気分になる。

 まるで自分の中の黒い物がもやとなって、すぅっと影に溶け込んでいくような、そんな感覚。


「この交流会って、来週もあるんだよね?」


「ええ」


 慌ただしく動き回る絵李に、響久は構わず話しかける。

 忙しそうだが、ちゃんと返事が返ってきた。


 「じゃあ、その絵は次会った時に見せてもらおうかあ」


「いいの?」


 驚いて顔を上げる絵李だが、どのみち見せる余裕はなさそうだ。


「いいよ。また、ここ来てくれるでしょ?」


 柔らかく細められた赤い瞳。その奥の蝋燭のような温かさが、今は絵李に向けられている。

 視線が絵李を温めたかのように、自然と頬が熱を持つ。


「勿論!」


 絵李が短く、けれどもしっかりと答えると、響久は顔を綻ばせた。

 無事に片付けを終えた絵李は、荷物を肩にかける。

 響久が入口まで歩いていき、そっとドアを開けてくれた。


「今日はありがとー。楽しかったよ」


「私も楽しかったわ。また会いましょう」


 忘れ物がないか確認してから、絵李は響久の横を通りすぎる。

 そのまま数歩廊下を歩くと――「絵李ちゃん」と引き留められた。


「オレ、『アイ』があったら君の絵――すごく好きだと思う」


 好き、という言葉に、ドキリと絵李の鼓動が跳ねた。

 絵李が振り返ると、ガチャリと鞄が音を立てる。

 雑にしまったせいで、中で画材が揺れた。


「実は今朝、コピーだけど絵李ちゃんの絵見てさ、いいなって思ったんだよ」


 真っ直ぐに絵李を見つめる赤い瞳の奥に、微かな藍色が見えた気がした。

 今朝、絵李の絵のコピーを見た。意味がわからず、絵李は怪訝そうに眉を寄せる。

 そんな絵李の様子を見て、響久は口元を押さえてくすっと笑う。


「――次は、きっと金賞だね」


 笑い交じりに言った響久は、じゃあまた、と言ってドアを閉めてしまった。


「……私の……絵を、コピーで、今朝……?」


 意味がわからぬまま言葉を繰り返した絵李は――。


「あっ!!」


 少しの間を置いて、1つの答えに辿りついた。


 月宮響久――どこかで聞いた覚え、いや見た覚えがあると思った。

 響久が絵李の絵を見たように、絵李もその名を今朝見たばかりだ。

 先生に貰った、コンテストの結果が印刷された紙。

 “金賞”の隣に並んでいたのが、月宮響久という文字だった。


「……私のアイは、間違ってなかったみたい」


 響久の絵なら、間違いなく金賞を取れると思った。

 まさか既に取っていたとは、全く気が付かなかったが。


 くるりと体の向きを変えた絵李は、第1美術室に向かって早足で歩き出した。

 もう一度響久の顔を見たくなってしまったが、集合時間は過ぎている。


 足がいつもより速く動くのは、皆を待たせているから。それだけではない。

 どくどくと高鳴った鼓動が、早く絵李の学校に戻りたいと告げてくるのだ。

 学校に戻ったら、すぐに美術室に行って――やらなければいけないことがある。


(……藍色を、足してみるといいかも)


 羽ばたけるのを待っている、の鳩に――『アイ』を描いてやらないと。





 ――――――1章 『アイ』が足りなかった

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