『アイ』を探して

第1話 異変

 響久と絵李が出会ってから、丁度1週間。

 今日もまた交流会で、絵李達は響久の高校の第1美術室へ来ていた。

 先週は考え事をしていて顧問の話を聞いていなかった絵李だが――今日はしっかりと耳を傾け、頷いている。


 少し視線を動かし、室内を見回してみる。残念ながら目立つ白色の髪は見つからなかった。


 横に置いた画板には白い画用紙がセットされているが――その下には、描きあがった絵が隠されている。

 早くこれを見せたくてたまらない。まだ誰にも見せていない、絵李だけが知っている作品を。


「では、3時にはここに集合してください。解散!」


 先週よりも短い話が終わり、皆がバラバラに立ち上がる。

 前回仲良くなったのだろうか、違う制服同士で挨拶を交わしている者が多い。

 どこかぎこちない会話が飛び交う中、絵李はいそいそと美術室を出ていく。


 そっと開けたドアから廊下へ出、閉める。

 少し早足で第2美術室へ向かおうとすると――。


「日高先輩!」


 と、見知った声に呼び止められた。

 くるりと振り返ると、琥珀色の大きな目が絵李を見ている。

 少し慌てた様子の日鞠は、絵李を追いかけるように飛び出して来たらしい。


「夢川さん。どうかしたの?」


「こっちの台詞ですよー。そんなに急いでどうしたんですか?」


 眉を下げた日鞠は、クセのないストレートの毛先を弄っている。

 わざわざ絵李を気にして出てきたとは。本当に周りをよく見ているようで、感心させられる。


「行きたいところがあるの。先週描いた絵を、見せたい人がいて」


 画板を肩にかけ直し、絵李は唇を吊り上げる。


 この1週間が、絵李にはどうしようもなく長く感じられた。

 部活や画塾で絵を描いている時間以外は、ずっと上の空だった気さえしてくる。

 自宅でも無駄に時間を通りすぎるのだけは避けようと、いつもより長く絵に時間を使っていた。

 おかげで夏季休業中の課題は殆ど進まなかった。


「えー、それ全然見せてくれなかったじゃないですか! 誰にも見せないんじゃなかったんですか?」


 日鞠は先週の絵を絵李に見せてくれたが、絵李は自分が描いた絵を見せなかった。

 日鞠に見せなかっただけではない。誰にも見せていない。


「ええ。誰にも見せないわ」


 完成した絵は、本当によく描けていると思う。

 それこそ絵李が今まで描いた絵の中で1番。

 けれどこの絵を響久以外の誰かに見せる気には、とてもなれなかった。


 今まで絵を見せるのが恥ずかしいと言う人の気持ちが、絵李には全くわからなかった。

 上手いなら胸を張っていればいい、堂々と見せればいいと思っていたのだ。

 けれど今なら、絵李にもその気持ちがよくわかる。


「でも、響久には見せたいの。見せるって条件で描かせてもらったから」


 ただの絵ではなく――それを通して、絵李の内面を見らてしまう気がして。

 羞恥を抱いてしまうのは、この絵に『アイ』が詰まっているからだろうか。


(……もしそうなら、悪い気はしないわ)


 内心で呟いた絵李の表情が、一層綻ぶ。

 少し恥ずかしく、けれども誇らしいような――そんな作品を描きたいと思った。


「そのー響久さん? とすっごく仲良しになったんですね。珍しいです」


「そうかも。自分でもちょっと驚いてるわ」


 絵李は小さく笑うと、日鞠はこてんと首を傾げる。

 するりと指先から離れた黒髪がサラサラと小さく揺れた。

 傾けた首を正すと、日鞠はにこーと笑みを浮かべる。


「日高先輩がちゃんと交流会らしいことしてて、安心しました! いってらっしゃいです!」


「ありがとう。夢川さんも楽しんでね」


 日鞠と挨拶を交わして、絵李は今度こそ第2美術室を目指す。

 白い廊下に、くっきりと絵李の影が伸びている。

 窓から差し込む日差しは、この1週間でかなり強さを増しているようだ。


 1歩歩く度に、どくどくと鼓動が高鳴っていく。

 それに合わせて、足の動きも速くなる。

 美術準備室、工芸自習室、音楽室と楽器庫を通り過ぎ、第2美術室の前で立ち止まった。


 テンポよくドアをノックする音は、少し大きすぎたかもしれない。

 はやる気持ちが手に伝わり、いらない力が入ったのだろう。


 聞こえない音ではなかっただろうに、返事は帰ってこなかった。

 呼んだ癖にいないのだろうか。

 などと絵李は少し不満に思いながらドアを開けた。


「おー絵李ちゃんじゃん。いらっしゃーい」


 ――が、美術室に入った瞬間、軽い声が耳に入ってくる。

 やっぱり教室の隅で絵を描いていたらしい響久が、くるりと身体をこちらに向けた。

 相変わらずカーテンの閉められた室内は薄暗い。それでもなんだか、温かい光で満ちているように思えた。


「返事してくれたらいいじゃない。いないかと思ったわ」


「ごめんー、面倒だった」


 からからと笑う響久は、全く悪いと思っていなさそうだ。

 そういえば先週も返事はなかったっけ、と思い出すと、不思議と絵李の表情にも笑みが浮かんだ。


 絵李は響久に合わせていた視線をその背後に立つキャンバスに向ける。

 ぐっと完成に近づいた絵は、更に魅力を増しているように思えた。


「……素敵ね……」


 ほうっと息を吐くように、絵李の口から微かな呟きが漏れた。

 小さな声を聞き取ったようで、響久は嬉しそうに顔を綻ばせる。


「ありがとー。よく描けてるでしょ」


 前回から既にかなり描き込まれていたため、進捗はわからない。

 けれど印象的な赤を引き立てるように寄り添う白の彩を見ると、すぐに綺麗、という言葉が出た。


「そろそろ完成なの?」


 得意気に答える響久に近寄り、絵李は絵を眺めたまま聞いた。

 何重にも絵具を重ねて細かい描き込みもされた絵は、十分完成しているように見える。


「ううん、まだかなー。多分もうちょっとかかると思う」


「拘るのね、いいじゃない」


 絵李の予想は軽く外れ、響久はまだまだ描くつもりのようだ。

 下の色を透かさずに色を重ねたり、絵具を盛って質感を出す等。

 無限に等しく描き込める油彩画には、絶対に本人にしかわからない完成ラインがある。それも、絵李が好んでいる理由の1つだった。


「拘ってる……のかな。オレはただ、いいって思えるまで続けるだけだよ」


「それを拘るって言うんでしょう。あなたって、ちょっと変わってるわよね」


「よく言われる」


 言いながら身体の向きを直した響久は、作業を再開した。

 絵李は鞄を置き、画板にセットされた新しい画用紙を外す。

 もう完全に絵具の乾いた絵が現れた。

 色彩豊かに響久を描いた、絵李の自信作だ。


「描くのやめてくれる? 私の絵を見てくれるって約束でしょ」


「ああー、そうだね。ごめん」


 軽い調子で謝った響久は、今度こそ筆とパレットを手放した。

 響久から見えぬよう画板を伏せた絵李が、すーっと深呼吸をする。

 空気と共に入ってきた油の匂いが、肺を満たしていく気がした。


 響久相手でも、少し恥ずかしい。

 けれど羞恥が生む躊躇いを、見てほしいという気持ちが追い越した。


 ――もう、つまらないなんて言わせない。

 言われるわけがない。

 だから……何も、怖くない。


「……はいっ!」


 絵李は勢いよく画板の向きを変え、表をしっかりと響久の方へ向ける。

 セットされた絵を見た途端、きゅーっと響久の目が見開かれた。

 驚いているのだろうか。瞳孔の縮んだ目は、その赤さを際立たせている。


「――へぇ」


 しばらくそうした後、響久は柔らかくその目を細めた。

 にっと吊り上がった口角が、どこか不敵な笑みを演出している。


「どう、かしら……?」


 ぎゅっと顔を引き締め、響久の様子を伺う。

 絵李の表情は少し険しくなっていたが、響久は気づいていないようだ。

 ただ絵だけをじっと見つめていて、絵李の方には向きすらしない。


「……上手いね」


 ゆっくりと動いた唇が、前回と同じ言葉を発する。

 だが――その声色は、絵李には前回よりも温かいように感じられた。


「うん、すごい。…………ごめん」


 蝋燭の火のような目で絵を見つめていた響久が、ふっと目を閉じてしまう。

 もう1度「ごめん」と呟くと、絵李の視線から逃げるように顔を伏せた。


「どうしたの?」


 驚いた絵李は、慌てて声をかける。

 サラッと流れた髪に隠されて、響久の表情はよく見えなかった。


「……ごめん、何か……何て言えばいいんだろうね、これ」


 焦るような、けれど喜んでいるような響久の声が、少し震えている。

 笑っているのだろうか、と絵李が顔を覗き込もうとすると――響久は絵李から隠すように口元を押さえ、立ち上がった。


「響久!?」


「ちょっと今、顔見られたくないかも。ごめん、すぐ戻ってくるから」


 何度も謝った響久は、そのまま教室を出て行ってしまった。

 ぽつんと取り残されてしまった絵李は、呆然と閉まったドアを見つめる。


 一瞬だけ見えた赤い瞳には、どこか哀しそうな色が浮かんでいた気がする。

 響久が何を思ったのか、絵李には全くわからない。


(……私の絵、何かいけなかったかしら)


 自信作だったのにな、なんて。

 わからないままに、絵李は自分の絵に視線を落とした。

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