第5話 響久の目
「……『アイ』が……足りない?」
困ったように顔を歪めた絵李が、オウムのように響久の言葉を繰り返す。
アイが足りない。そんなことを言われてもわからない。
アイ、藍? 相? 合? 間? 哀?
ぐるぐると考え込む絵李を見て、響久はクスリと笑った。
「アイだよお、アイ。絵李ちゃんには、アイが足りてないんだよ」
「アイって何なのよ」
へらりと笑う響久だが、絵李の表情は晴れない。
絵李には響久の言うことも、アイの正体も全くわからない。
わからないけれど――わからないからこそ、納得してしまった。
――絵李には、アイが何かわからない。
わからないから、欠けているのだろう。
「そんな怖い顔しなーい、リラックスして」
「顧問の先生には、自我が足りないって言われたわ」
響久の言葉を殆ど無視して、絵李は試すように言った。
アイの正体、それは自我である。もしくは、それに似たようなものである、と。
絵李は希望的に決めつけていた。
そうでなければ、絵李の絵は穴だらけになってしまうのだから。
「そうだねー、それもアイの1つだと思う。でもそれだけじゃない。僕が足りないと思ったのは、もっと広くて深くて、言葉じゃ表せないもの」
軽い調子で言う響久は、何だか機嫌よく見える。
「言葉で表せないから、絵に表すんだよ」
「……私だって、やってるつもりよ」
吊り上がった口が紡ぐのは、抽象的な言葉ばかり。
曖昧な輪郭は定まる気配も見せず、絵李にもどかしさを植え付ける。
「言葉じゃ表せないものを、描いたつもり」
動物の毛並み、画面に溢れる光、水の綺麗さ、地面の質感――そんなもの、絵の方が言葉より表現できるに決まっている。
絵李はそのどれもに拘り、上手く表現している。
「アイを描けば、自我も満ち足りるの? それで私は――完璧になれるの?」
絵李の顔を見た響久は、少し困ったように笑みを消した。
「どうすればアイが手に入るの? 描けるようになるの? 教えてよ、あなたの絵には、全部あるんでしょ?」
焦るように、絵李の鼓動が速くなる。それに合わせて、舌の動きも速くなる。
そんなつもりなくとも、響久を責め立てるように口が動く。
「知ってるんでしょ? 教えて。でないと私は――私に、自信が持てなくなるわ」
絵李の眉が、口角が、次第に下がっていく。
小さな頃から絵が好きで、上手く描くことができた。
物心ついた時からずっと、それだけが強みだった。
「私の絵に足りないものなんて、ないと思ってた。完璧だって言われてしまうような――そんな絵を描けてると思ってた」
絵李は震える両手を、自信の胸に当てた。
支えを失い落下しかけた画板は、響久によって支えられる。
「なのに……そうじゃなかったなんて」
悔しいの、と、絵李は苦しそうな声で呟いた。
くしゃりと歪んだ表情に釣られるように、響久の表情も曇る。
「悔しいのよ、悔しくて悔しくて、仕方ないの! お願いだから、教えて」
「うん、いいよー」
絵李の気持ちを和らげようとするように。表情の曇りを取り払うように、響久は柔らかく微笑んだ。
画板の向きを変え、絵李に絵を見せるように持つ。
「絵李ちゃんは、何が描きたかったの?」
「何って……あなたよ」
「何で?」
「あなたが、綺麗だと思ったからよ」
初歩的な質問をした響久は、赤い目をその絵に向ける。
絵李には、なぜかその目が特別なもののように思えた。
響久は絵を見ている。けれど、絵を見ているわけじゃない。
まるで――絵を通して、絵李自身を見ようとしているようだ。
「確かに綺麗に描けてるね。写真みたいに、ただ普遍的に。だけど、絵李ちゃんが何でオレを描きたいと思ったのかがわからないかなあ」
「それは、アイがないからなの?」
「そうだねえ」と、軽い答えが返ってきた。
いい加減だと思う一方で、その緩さに救われている絵李がいる。
「絵李ちゃんは知ってる? 同じ時間、同じ場所で同じ物を見ても――人によって見え方は違うんだよ」
薫風のような言葉だから、逃すまいと受け止められるのだろうか。
相手が響久でなければ、絵李の何かがぼろぼろと崩されていたかもしれない。
「視力とかが違うってこと? ……それとも、今まで見てきた物との関係、かしら」
「せいかーい、絵李ちゃん賢いね?」
響久はぱっと顔を明るくすると、画板を机の上に置いた。
にこっと嬉しそうに笑って、空いた手で絵李を掴む。
「え、ちょっと――」
「来て来て」
立ち上がると、その手を引いて教室の一番前まで歩いてきた。
黒板の前で絵李を離し、代わりにチョークを持つ。
「これまでの経験、趣味嗜好や個性。その全部が目に影響するんだよ。もっとよく知って、自分がどんな目をしてるのか」
カッカッと高い音を立て、チョークが短い線を描いた。
“fine”と書くと、赤い目が絵李を見る。
「これ、何て読むでしょー?」
「え、“ファイン”でしょ?」
戸惑いながらも、絵李はしっかりと答える。
fine。主語、be動詞と合わせて元気という意味を持つのだったか。
「そっかそっか。オレは“フィーネ”かなあ。イタリア語で終わりって意味」
肩を竦めて言った響久は、静かにチョークを置いた。
にこりと絵李に笑いかけると、背を向けた黒板にもたれかかる。
「制服、汚れるわよ」
「いーよ。ブレザーじゃないし」
シャツはすぐに洗えるから問題ない、と言いたいのだろうか。
少しの躊躇いを見せたが、絵李も響久に習うように黒板にもたれかかった。
「簡単な質問だけど、個性出たでしょ」
「私は普通よ、英語で習うもの」
「フィーネだって音楽で習わなかった?」
「忘れたわ」
顔を見合わせた2人は、どちらからともなく笑いだす。
たまには交流会なんて行事も悪くないかもしれない、なんて思った。
「ほら。オレと絵李ちゃんの目が違うから、印象に残ってるものが違ったんだよ」
「そうみたいね」
のんびりとした響久の言葉に、絵李もゆっくりと頷き返す。
まだ、響久の言う全てが掴めたわけではない。
けれど今朝からずっと感じていた焦りは消え、少しずつ軽くなっている気がした。
「それを作品に出すのは――アイを描くには、どうすればいいの?」
教室中を見渡すように遠くを見る響久に、絵李は率直に問いかけた。
また響久の真似をして、前方に目を向けてみる。
「どうもしないよー。目に見えたものを、そのまま描くだけ」
「だから――」
そうしてもできないから聞いてるんでしょ、なんて。
絵李はわざとらしく眉を寄せて抗議しようとするが――響久の顔を見ると、その表情は崩れてしまう。
柔らかく細められた赤い目が、蝋燭の火のような優しい温かさを帯びていた。
「例えばもし、今見えてる光景を描いたらさ。オレ、絶対絵李ちゃんよりいい絵が描けるよ」
「……あなたはどこを描いても、私よりよく描けるわよ」
ふんわりと笑う響久から、絵李は静かに視線を外す。
ふっと、勝手に口から息が漏れた。
「そうかもねぇ」
「ちょっとは否定しなさいよ」
絵李がわざと怒ったように言うと、響久はからからと笑った。
確かにそうなのだが、少しくらい絵李を立ててくれてもいいのではないだろうか。
「でも絵李ちゃんがアイを描けるようになったら、どっちが上手かわからないよー?」
「負けないつもりはないわけ?」
「芸術は勝ち負けじゃないからねえ」
さらりと否定され、絵李は黒い目を丸くした。
芸術は勝ち負けじゃない。己を追求するものだ。
絵李だってわかっていたつもりだが、迷いなく言い切られるとは思わなかった。
「そうなっても、ここの絵は絶ー対オレの方がよく描けるけどね。それが、オレのアイ」
「……あなたの方が、ここをよく知ってるから?」
「そー」
絵李の方を見た響久が、勘がいいんだね、なんて笑った。
経験や趣味嗜好といった個性が見え方に影響すると、響久がゆっくりと教えてくれた。
それがアイと関係があるなら――と考えると、絵李にもこれくらい想像できる。
「結構大事な場所なんだあ。絵李ちゃんにはただの美術室に見えてるだろうけど……オレにはそうは見えないよ」
ただの美術室、と言うが、絵李は物が多く狭い部屋は準備室のような印象を受けた。
薄暗くて絵具の匂いが混ざり合った空間は、どちらかというとマイナスな印象を受ける人が多いかもしれない。
「キラキラしてて、すっごくあったかい。今まで見たどの景色よりも、愛おしく見えるんだあ」
キラキラしていて、温かい。響久はこの場所のことをそう言っているが。
絵李には語りながら笑みを作る表情が、蝋燭の火が揺らめくその瞳が、温かく煌めいて見える。
「……素敵ね」
たった3文字の、自分で発した言葉。
(……私、どっちに言ったのかしら)
ふいに口をついて出たそれの行先が、絵李にはわからなかった。
なんとなくじっとしていられない手でぎゅっと胸辺りのシャツを掴む。
もう少しで絵李の中に、何かが掴める気がした。
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