第4話 アイが足りない
画材を広げた絵李は、そろりと響久に目を向けた。
絵に向き合う横顔は、やっぱり別人のように真剣な表情をしている。
赤い目はただキャンバスのみを見つめていて、絵李のことなど忘れたかのようだ。
その顔。その瞳。カーテン越しに差す光を、柔らかく受け止める白い髪。迷いなく絵具を乗せていく筆。
何から何まで、絵李の胸を高鳴らせる。
描きたいと、心を踊らせてくる。
薄暗い教室内には、誰かが描いた絵や石膏、画材か何かが入っているのであろう段ボール箱などが沢山置かれている。
第2美術室、という名前だが、美術室より準備室に近い印象だ。
光源は薄いカーテンの閉じられた窓から注ぐ、柔らかい光のみ。
なのに絵李には、響久の周りがキラキラと煌めいているように見えた。
黄色い光に包まれていて、けれども綺麗な横顔には、藍色の影がさしている。
どこからくるのかわからないそれに、絵李は数度目を瞬いた。
(……観察終わり!)
見間違いだと判断した絵李は、鉛筆をそっと画用紙の上に滑らせた。
目の前の光景とよく見比べながら、まずはあたりを取る。
大まかな位置を決め、気合を入れて描き始めた。
サラサラと鉛筆を走らせ、顔を上げる。
白い画用紙に黒を乗せ、また響久を見る。
そうして描き進める時間は、なんとも心地よかった。
両者完全に無言。何の会話もない時間。
それを交流と呼べるのかは怪しいが、2人にはそれでよかった。
いつも通り完璧に描ききるつもりで、絵李は夢中で鉛筆を動かす。
鉛筆の先と画用紙の表面が擦れ、さっさっと微かに音を立てた。
その小さな音に耳を傾けると、吹奏楽部の楽器の音が遠ざかっていくようだ。
一方の響久は、音もなく筆を動かしていた。
ゆっくりと丁寧に色を乗せていく筆遣いからは、かなり慣れているのがわかる。
これほどまでの絵を描くのに、どれだけの時間を要したのだろうか。何枚もの経験を重ねたのだろうか。
その手で、どれだけの美しい物を切り取ってきたのだろうか。
少し絵具のついた手から、絵に対する熱意や愛のようなものを感じた。
まるで、その熱が絵李に伝わってくるように。
絵李の意欲を、これでもかというほど増幅させる。
――熱量や気持ちなら、絵李だって負けていない。
受け取った熱さを倍にして返してやるつもりで、絵李はますます気合を入れた。
**
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
最後の描き込みを終えた絵李が、ふっと息を吐いた。
スマホのホーム画面を点けると、もうかなりの時間が経っていた。
確認した瞬間、どっと疲れた気がする。
まるで一瞬に感じた時間が、途端に引き延ばされたようだ。
絵李は時間の流れも忘れるほど、夢中で描いていたらしい。
筆洗で軽く洗った筆を置き、描きあげたばかりの絵を見る。
鉛筆の下書きを色づけた水彩絵の具は、まだ乾かずにてかてかと光っている部分もある。
(結構いいんじゃない?)
目の前の光景と絵を見比べた絵李は、満足気に息を漏らした。
水彩絵の具を使うのは久しぶりだったが、かなりよくできたと思う。
響久の姿にも、ここからでは何が描かれているか見えないキャンバスにも、その奥に見える棚や壁の質感にも拘った。
明暗から細かい書き込み、色彩に至るまで、納得のいく仕上がりだ。実物と見比べても大差ない。
立ち上がった絵李は絵を、画板ごと持って響久のもとへ歩く。
声をかけようとして――開いた口から、音が出なかった。
(綺麗……)
少し完成に近づいた響久の絵を見て、言葉がどこかへ飛んで行ってしまったのだ。
書き込みが増えただけ。がらりと雰囲気が変わったわけでもなければ、劇的に進んだわけでもない。
けれど間違いなく魅力を増していた。
一度見てしまえば、目が離せなくなる。
まるでぐっと心臓を掴まれたかのようだ。
遠くの楽器の音が更に遠ざかり――鼻先をくすぐる油絵具の匂いすら忘れてしまう。
「――描けた?」
キャンバスに引き込まれていた意識が、響久の言葉でふっと引き戻される。
少し視線を下げると、赤い目が絵李を見つめていた。
「……ええ、描けたわよ」
「見せてー」
響久は嬉しそうに声を弾ませ、身体の向きを絵李の方へ変える。
絵李は響久に絵を見せるべく、画板をくるりと回そうとして――その手を、ぴたりと止めた。
「どうしたの?」
硬直してしまった絵李の様子を、響久が不思議そうに伺う。
はっと目を見開いた絵李は、咄嗟に俯いた。
「……何でもないわ。…………何でもないの」
それは、響久の問いに対する答え。
同時に、絵李自身に言い聞かせるものでもあった。
響久に絵を見て貰おうとしたのに――怖い、と思ってしまったのだ。
人に絵を見せるのを躊躇したことなど、一度もなかったのに。
初めての感情に、絵李自身も戸惑っている。
「……見せたくない?」
響久は困ったように眉を下げ、控えめに聞いた。
どこか悲しそうな表情に、絵李はひゅっと息を呑んだ。
同量の息を吐き出した絵李が、誤魔化すように咄嗟に顔を背ける。
「……いいえ? 描き忘れがないか確認してただけよ」
強がった絵李は、そのまま勢いで絵を響久の方に向けた。
躊躇った。見せたくないと思ったのは事実だ。
しかし絵李はそれを決して肯定しない。やはり、変に負けず嫌いなのだ。
「――ふーん、上手いね」
描けたばかりの絵をまじまじと見つめた響久が、小さな声で呟いた。
絵李は礼を言おうかと口を開きかけたが――何も言わずに口を閉じる。
観察するように絵を見つめる赤い目は、何も語ってはくれない。
一体、絵李の絵を見て何を感じているのだろうか。
「普通に鏡を見てるみたいだ」
またしても声を漏らした響久が、音もなく顔を上げた。
真剣な眼差しが絵李に向けられる。
薄い笑みを張り付けた表情からは、やはり何も読めそうもない。
「どうだった……?」
生唾と一緒に緊張を飲み込み、重い口を開く。
絵李の短い言葉は、なんだか上ずっている気がした。
「うーん、そうだなあ」
響久はにこにこと笑ったまま、わざとらしく考える。
のんびりとした仕草に、苛立ちのようなものを覚えた。
(はやく。はやく何か言ってよ……!)
ぐっと唇を噛んだ絵李は、心の中でそう懇願する。
上手い、とは聞けた。
けれどいいのか悪いのか――絵李の絵から、自我を見出すことはできたのか。
何を思ったのか、1つもわからない。それが、なぜかたまらなく怖かった。
「……なるほど。君は、正直な感想がほしいんだねえ?」
絵李の顔は、少しずつ強張っていたようだ。
失礼なことに、気がついた響久は更に笑みを深めた。
深い、綺麗な笑顔なのに――赤い瞳の奥に見えるのは、明るい感情ではない。
「――つまんないなぁって、思ったよ」
上手いんだけどね、と、取ってつけたような言葉が追加される。
しかしお世辞のような言葉は、絵李には届かなかった。
絵李が再び視線を向けると、細められた赤い瞳の奥が見えた。
瞳の奥に見える感情は――失望、だろう。
失望させてしまった。絵李の絵は、響久の期待に応えられなかった。
折角描かせてくれたのに。と思う一方で。
薄々、そうなるのではないかと思っていた。
――絵李の絵には、自我が足りないのだから。
こんなにも上手く、心惹かれる絵を描く人に。
絵李の絵が通用するのだろうかと、ずっとどこかで不安に思っていた。
「……ありがとう」
嫌な気持ちをぐっと飲み込み、絵李は低い声で言った。
失礼なことを言われても、怒りは全く湧かなかった。
予想はできていたし、響久にはそれを言えるだけの実力があるのだから。
響久の絵をコンクールに出せば、必ず金賞を取るだろう。
間違いなく、響久は絵李に足りないものを持っている。
「響久。――私に足りないものは、何?」
だから敢えて、絵李はそう聞く。
自我だ、と言われるのはわかっている。けれどわざわざ、何かと聞く。
絵李は無意識のうちに、響久の目を試しているのかもしれない。
「そうだねえー」
適当な相槌を打った響久から、ふっと笑みが消える。
再び上がった口角は、自然な柔らかさを含んでいた。
「――『アイ』が、足りないねぇ」
迷いのない目で絵李を見据え、響久ははっきりとそう言った。
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