第3話 あなたを描きたい
問いかけへの返事も忘れ、絵李は大きな絵に魅入っていた。
画面の奥に配置された鳩が、こちらに向かって飛んで来ている。
その後ろに広がる深い藍色。べったりとした、闇のような夜空だった。
そこに散りばめられた白く輝く星と、黄色く光るビル群の窓。
――そして、赤く、うっすらと光る月。
大胆に、けれど繊細に描かれたそれを、絵李はとても綺麗だ、と思った。
絶対にこの世には存在しない景色。なのに何故か、よく知った場所のような懐かしさを覚える。
この絵の中の世界に入ってしまいたいと思わせてくるような、不思議な魅力を持った絵だった。
「何の用ー? てか誰、
絵李が何も答えないまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
はっとした絵李は、絵から外した視線を男子生徒の方へ目を向ける。
「あ、ごめんなさい。私は美術部の交流会で――」
彼もようやく絵李の方を振り返り、ばちっと目が合った。
その姿を見た絵李は、またしても驚いて言葉を詰まらせてしまう。
男子生徒は、すごく綺麗な容姿をしている。
絵画の中ように整っていて……なにより絵李を驚かせたのは、その色だった。
絵李の通う高校は髪を染めるのが禁止なので派手な髪色の者はいない。
けれど目の前の彼、その髪は――真っ白だった。
絵李をじっと見つめるのは、丁度描かれている月のような深紅の瞳。
カラーコンタクトでも入れているのだろうか。
まるで、別の世界から出てきたようだ。
「あれ、知らない人だ。誰ー?」
どこか気怠げな目を一瞬丸くし、彼は小さく首を傾げる。
短い白髪がサラリと流れ、微かな光を動かした。
「え、えと……私……」
絵李は咄嗟に名乗ろうとしたのだが、上手く言葉が出てこない。
混乱しているのだろうか、考えがまとまらないのだ。
男子生徒は不思議そうに視線を彷徨わせ、絵李の持つプリントを見つけた。
「ああ、他校の人かあ。どうりで制服が違うと思った」
男子生徒は筆とパレットを机に置いて立ち上がる。
絵李のすぐ傍まで来て、顔を覗き込んできた。
近くで見ても、その目はやっぱり赤色。
目を丸くしている絵李を見て、男子生徒は再び首を傾げる。
少し考える素振りを見せると、納得したように笑った。
「なるほどー? そんなにオレが珍しい?」
「え、ええ」
絵李がやっとの思いで返すと、男子生徒はクスリと笑みを溢す。
唇を吊り上げたまま、少し絵具のついた指で毛先をつまんで見せる。
「染めてないよ。これ、生まれつきなんだー」
「あと目も」と付け足すように言い、綺麗な顔を歪めて笑った。
「そう、なのね……」
少し後退りつつ、絵李はなんとか笑みを作る。
どこか外国の血が入っているのかな、とぼんやりと考えた。
「今日なんだっけ、交流会?」
男子生徒は絵李からプリントを奪い取ると、軽く目を通す。
「ふーん、来週もあるんだ。写生とかする感じ? 大変そうだねぇ」
「そうね。あなたは参加してないの? さっき第1美術室にいなかったわよね」
プリントを返してもらい、絵李はいつもの調子で問いかける。
考え事をしていて周りをよく見ていなかったとはいえ、彼がいなかったことは断言できる。
こんなに目立つ容姿をした人なら、流石に気がつくはずだ。
「うん。ここで描いてる方がよっぽど有意義でしょー?」
「そうかもしれないわね」
男子生徒は少しの間絵李を見ていたが、くるりと背を向ける。
キャンバスの前に座ると、再び筆を取った。
話は終わり、ということかと思いきや、「何描くか決めた?」と振り向く。
「えーと……」
絵李はそんな彼をじっと見つめて、答えを考える。
まだ教室を出たばかりで、殆ど何も見ていないのだ。
描きたいもの等見つかるわけもない。
――まだ、と答えようとしたのに。
「ええ。決めたわ」
気づけば絵李はきっぱりと答えていた。
まだ殆ど何も見ていないのに、見つけてしまった。
学校中を探しても、これ以上に心惹かれる光景はないだろう。
「私、ここの絵が描きたいわ。今絵を描いてるあなたを、描きたい」
彼の描いた絵が、素敵だと思った。
そんな絵を描く彼が、素敵だと思った。
ビビッと、脳の奥を刺激されたのだ。
「……変な冗談ー」
見開いた目をきゅっと細め、男子生徒は呆れたように笑う。
絵李は釣られて笑いもせず、真剣な眼差しを向け続けた。
「本気よ? あなたが描きたいの」
男子生徒は唇を引き結び、微妙な表情を浮かべた。
あまり快く思ってはいないように見える。
「駄目かしら?」
不安になった絵李が、そろりと様子を伺った。
やっぱり取り消そうかなどと思っていると――男子生徒がぷっと吹き出した。
「――あははっ。君、面白いこと言うね?」
男子生徒は手で口元を覆い、愉快そうに笑っている。
手についた絵具はまだ固まっていないと思うのだが、顔につかないだろうか。
「それはいいってことかしら?」
絵李がむっと眉を寄せて聞くと、「いいよー」と笑い交じりの声が返って来た。
渋ると思っていたが、意外とすんなり許可が降りた。
「オレは
はにかみながら、男子生徒――響久は軽い調子でその名を口にした。
「綺麗な名前ね」
「よく言われるよ」
名は体を表す、というものだろうか。
その容姿によく似合う、綺麗な名前だと思った。
なんとなく覚えのある気がするが、芸能人か誰かと似ているのだろうか。
「私は
交流会っぽくなってきたな、なんて思いながら、絵李もしっかりと自己紹介をしておく。
響久はこくりと頷くと、「エリちゃんねー」と声に出した。
男子から下の名前で呼ばれるのは初めてで、なんだか擽ったかった。
「響久、書かせてくれてありがとう。断られるかと思ったわ」
「全然。君がどうしてオレを描きたいと思ったのか、気になるからねえ」
ふっと笑った絵李は、響久を下の名前で呼び返す。
呼ばれ慣れないの同様に呼び慣れないが、絵李は変に負けず嫌いだった。
「それは――」
「言わないで」
絵李が答えようとすると、すっと手が伸ばされる。
立てられた人差し指が、絵李の言葉を制止した。
「絵から知りたいんだ。君にはオレがどう見えてるのか、何を思って描こうとしてくれたのか」
伸ばした手を下げ、響久はにやりと笑う。
気を付けていたのか、口元に色はついていなかった。
「絵を見たらわかるの?」
「わかるよー? 絵には
響久の答えを聞いて、絵李ははっとした。
ドキッと心臓が跳ね、鼓動が速くなる。
「……なら、描いたら見せるわね。感想聞かせて」
平静を装ったつもりだが、少し早口になっていたかもしれない。
早る気持ちを、ゆっくりとした呼吸で落ち着かせる。
「あはは、楽しみにしてるよー」
響久は楽しそうに笑いながら、筆の先を絵李の横に向けた。
そちらに目を向けると、響久が座っているのと同じ丸椅子が置かれていた。
使えということだと判断し、有難く腰かける。
画板を膝の上に乗せ、床に置いた鞄を開ける。
鉛筆と練り消しを用意して顔を上げると、響久が絵李を見ていることに気が付いた。
絵李――というよりも、絵李の鞄に目を向けている。
「何かあった?」
「そのスケッチブック、結構描いてるの?」
気になった絵李が聞くと、響久は鞄の中を指さした。
絵具やペンと一緒に、1冊スケッチブックも入れていたのだ。
「まあ、それなりにね。最近新しくしたばかりだから、そんなに多くはないけど」
「見たいー」
「いいわよ」
スケッチブックを取り出した絵李は、丁寧に響久に手渡す。
響久は「ありがとー」と礼を言い、絵具がつかないように気を付けながら受け取った。
大きめのスケッチブックを、丁寧に捲っていく。
じっとページを見つめては捲る、次のページを見つめ、また捲る。
「……どう、かしら?」
手持無沙汰になった絵李は、そっと響久の表情を伺った。
綺麗な顔からはへらりとした笑みが消えていて、赤い瞳は真剣そのものだった。
「――エリちゃんの“エ”は、絵画の“絵”?」
スケッチブックから目を離さぬまま、響久が突然聞いてきた。
「そうだけど」
絵李には質問の意図がわからないが、正直に肯定する。
絵李の“エ”は“絵”だ。
絵を描くのが好きな自分にぴったりで、かなり気に入っている。
名が体を表しているのは、絵李もかもしれない。
「絵李ちゃん……日高絵李ちゃん、か。なるほどねえ」
絵李の名前を呟きながら、響久はうんうんと頷いた。
「何よ」
「いい名前だなって思ったんだよ。まるで絵を描くために生まれてきたみたいだ」
目を閉じた響久が、同時にスケッチブックも閉じる。
絵李に返すと、にこりと笑った。
「君に描いてもらうのが、ますます楽しみになったかも」
「それはよかったわ」
スケッチブックを受け取り、絵李は再び椅子に戻る。
絵李が座ったのを確認すると、響久は大きなキャンバスに向き合った。
「じゃあ、描けたらみせてねー」
それだけ言うと、ふっと、響久の表情が変わる。
絵李の絵を見ていた時の数倍、真剣な表情。
柔らかい笑顔を浮かべた姿とは、まるで別人のようだ。
その表情に、ぐっと絵李の頭の奥が刺激される。
描きたい、という意欲が、ますます高くなる。
『絵には
そんな響久の言葉が、心のどこかにつかえていた。
ちゃんと絵李の絵にも自我が出るのか、少し不安だったのかもしれない。
けれど今は、そんなことどうでもいい。
ただただ、この綺麗な姿を描きたいと思った。
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