第2話 足りないもの
顧問の言葉には、かなり納得できた。
ようやく絵李は自分の穴に気づき、それを埋めるための手がかりを手に入れたのだ。
それは、大きな進歩だと思いたい。
――が。
(……自我が足りないって、どういうこと……?)
足りないものがわかったからと言って、全てを理解したわけではなかった。
集合場所である校門に行き、部活仲間に会っても。
バスに乗って移動しても、目的地である見慣れない高校に足を踏み入れても。
絵李の頭は顧問の言葉ばかりを考えていた。
(絵に自我なんてないでしょ? 心があるわけじゃないし……そもそも心なんて描けないじゃない)
と、ぐるぐる考え込んでいた。
自我がないから、絵李は1番になれない。
それはわかった。一応納得できた。
しかし、自我を手に入れる方法が全くわからないのだ。
どうすれば、自我を手に入れられるのか。
どうすれば、自我を描くことができるのか。
「……輩、日高先輩!」
ぐるぐると考え込んでいるうちに、完全に自分の世界に入っていたらしい。
絵李の名前を呼ぶ声は、肩を叩かれて初めて聞こえてきた。
「えっ。何、
ぱっと顔を上げると、目の前にくりっとした琥珀のような瞳があった。
不思議そうな顔をした後輩――
同時に、吹奏楽部の練習だろう不揃いな楽器の音が耳に入ってくる。
「ごめん、どうしたの?」
絵李はぱちぱちと目を瞬き、固まっていた表情を笑みに直す。
そんな様子がおかしかったのか、日鞠はくすっと笑った。
「考え事ですかー? 先生の説明、ちゃんと聞いてました?」
「先生の話、もう終わっちゃったの!?」
はっとして辺りを見回すと、皆それぞれに美術室を出て行くところだった。
両校の美術部員が集まり、2人の顧問の話を聞いていたのだが。
絵李が考えごとをしている間に、企画の説明はとうに終わってしまった。
「さっき終わりましたよ。よかったら私が教えましょうか?」
日鞠はまたしてもくすりと笑うと、小さく首を傾げた。
その提案に答える前に、絵李は配布されたプリントに目を向ける。
今日の催しの内容と、簡単な校内図が書かれていた。
「……ううん、これがあるから大丈夫よ。ありがとう」
「いえいえ! 絵を描くのも大事ですが、ちゃんとここの人と話すんですよー?」
「わかってる、交流会だものね」
茶化すように言われ、絵李はしっかりと頷く。
今まで話が聞こえていなかったように、絵李は集中しすぎると周りが見えなくなることがある。
部活でも作品に集中した日は、日鞠に声をかけられてようやく下校時刻になったことを気づくのだ。
「本当ですかぁー?」
日鞠は中学の頃から同じ美術部に所属していて、もう長い付き合いになる。
絵李のことをよく知っているから心配してくれているのだろう。
「本当よ。みんな行っちゃったし、日鞠も行ってらっしゃい」
疑いの目を向けてくる日鞠に、絵李は小さく手を振って見せる。
日鞠はぱちぱちと目を瞬いてから、にっこりと笑った。
「はい、行ってきまーす! どんな絵描いたか、後で見てくださいね!」
「ええ、楽しみにしてるわ」
大きく手を振った日鞠がガチャガチャと音を立てて駆けて行く。
画材の入った鞄の中は、あまり整理されていないようだ。
「……そういえば! 今日、1個コンクールの結果出たんですよね。どうだったんですか?」
美術室を出る直前、日鞠がくるりと振り返った。
唇は変わらず吊り上がっているが、その目は真っ直ぐに絵李を捉えている。
「……銀賞」
「すごい、おめでとうございます! 流石日高先輩ー」
ぱちぱちと手を叩いた日鞠に、絵李は「ありがとう」と返す。
自然に返したつもりだが、声量は少し萎んでいた。
「――なーんて言われても、日高先輩は嬉しくないんですよね」
結果が出る度口に出した、偽物のありがとう。もう慣れたはずの作り笑い。
日鞠には見破られてしまったようで、ふっと唇から笑みが消えた。
「銀賞だって十分すごいのに。それじゃ満足できないんですよね」
日鞠は少々能天気に見えるが、周りをよく見ている。
だからこその鋭さを持っていて、まるで絵李の心を直接覗いているようだ。
「……ええ。私は1番になりたいの」
「それで悩んでたんですかー」
まるでその鋭さを覆い隠すように、日鞠はどこか頼りない相槌を打つ。
「そう。私の絵には、足りないものがあるみたいなの。夢川さんは――何だと思う?」
絵李は深く頷くと、真剣な口調でそう聞いた。
相手を選んでいられなかったのか、日鞠だから聞きたくなったのか。
絵李自身にすら、わからなかった。
「先輩に足りないものですか?」
絵李の言葉を聞き、日鞠は絵李の元へ戻ってきた。
すぐ前までくると、絵李に視線を合わせるようにしゃがむ。
「日高先輩は完璧だと思います。足りないものなんてありません」
くりっとした丸い目に見つめられ、絵李の眉が困ったように下がる。
そんな様子を見た日鞠は、にこりと深い笑みを浮かべた。
「あんなに上手に描ける人、そうそういませんから。日高先輩は、そのままでいーんですよっ!」
明るい声で言った日鞠は跳ねるように立ち上がった。
ガチャッと鞄を揺らして絵李に背を向ける。
「では、今度こそ行ってきまーす! 今日も素敵な絵描きましょうね!」
日鞠は大きく手を振ると、今度こそ廊下へ出て行ってしまった。
彼女なりに励ましてくれたのだろう。落ち込んでいた絵李だが、ちょっと元気が出たかもしれない。
日鞠はあんな調子だが、かなり絵が上手い。
出会った時はそうでもなかったのだが、3年と少しでかなり腕を上げたようだ。
(……夢川さんには、あるのかしら)
――絵李に足りないものが。
内心で呟き、絵李はゆっくりと立ち上がった。
画材の入った鞄と画板を肩にかけ直し、日鞠の後を追うように廊下へ出る。
目的地も決めぬまま歩き出し、握ったプリントに目を落とした。
「えーと、交流会……。好きな絵描きつつ、ここの美術部員と話そうってことよね」
ある程度は頭に入っているが、一応概要に目を通しておく。
今回の催しは、簡単に言えば交流会と写生会を混ぜたようなものらしかった。
厳密に言えば写生会ではないため、描く物はなんでもいいのだが。
校内の好きな場所で絵を描くだけではなく、誰かと一緒に描いたり見せ合いやアドバイスを行うことが推奨されているようだ。
お互いを描きあうとか、誰かと同じ場所を描く、趣味が一致していればそれに関する絵を描く――といったところか。
「……うーん」
歩を止めた絵李は、目を閉じて考え込む。
交流が大切なことはわかる。けれど、交流するために描くというのは気に入らない。
――まずは、どこかの風景でも描いてみよう。
そう決めて、絵李は再び歩きだした。
その足取りは先程より軽い。
日鞠には交流しろと言われたが、そんなものその後でいいと思う。
今はただ、絵が描きたいと思った。
(となると、いいとこ探さないとね)
校内図とドア上のプレートを見比べながら、時折窓の外にも目を向ける。
こうして見ていると、余所の高校を歩くのは中々面白い。
高校などどこも同じだと思っていたが、絵李の予想に反して全く違っていた。
窓の外に見える校外の風景が違うのは勿論。
教室の種類や名前、位置、どれもかなり違っていた。
美術室が4階、その隣に美術準備室がある、というのは同じ。
絵李の高校では、その隣は音楽室なのだが――ここでは工芸実習室という教室だった。
一体何の授業に使うのか、絵李には全く想像がつかない。
校内図を見ると、他にもよくわからない名前の教室が沢山ある。
公立と私立の違いか、この学校が総合学科だからか。
工芸実習室の隣は普通の音楽室で、その隣は楽器庫。
そして、その更に隣に――第2美術室があった。
(美術室、2つもあるのね……? しかも離れてるし)
絵李はぼんやりと考えながら、第2美術室のドアに手をかけた。
何気なくガラガラと開け、中を覗き込む。
第1美術室との違いが気になったのだったか。
「失礼しまーす」
一応発した絵李の小さな挨拶が、そう広くない室内に響いた。
明るかった第1美術室と違い、ここには明かりがついていなかった。
絵李が薄暗い室内を見回そうとすると――。
「――はーい、何ー?」
のんびりとしたような、どこか間の抜けた声が聞こえた。
誰もいないと決めつけていたため、絵李は驚いて固まってしまった。
薄いカーテンの閉められた窓際の端、たった1人で絵を描いている人がいた。
その人は絵李に背を向け、真っ直ぐキャンバスに向き合っている。
立てかけられたキャンバスは、絵李からでもよく見えた。
絵李が今朝描いていたものよりも大きく、20号と思われる。
だが、キャンバスの大きさなどどうでもいい。
そこに描かれた絵に、絵李は一瞬で目を奪われた。
たまたま、彼も空に羽ばたく鳩の油彩画を描いている。
けれど絵李の絵とは、全く違っていた。
構図、色使い、塗り方、雰囲気。
そのどれもが絵李と違っていて――けれど何か、もっと別のものが違っている。
そう、直感的に悟った。
そしてもう1つ、より強く感じたことがある。
(……勝てない)
――と。
芸術は勝ち負けではない。そうわかっていながらも、そう思ってしまった。
きっと、こんな絵が金賞をとる。1番になれる絵なのだろう。
そう言えるほど強い魅力がある。
絵李には描けない。今のままではどれだけ努力しても、これを描くことはできない。
その絵を見るほど、引き込まれる。心臓がせわしなく音を立てる。
絵李の絵からは到底呼び起こせない感情が、身体の底から湧き出てくるようだ。
じっくりと絵を眺め、絵李は確信した。
――彼は間違いなく、絵李に足りないものを持っている。
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