『アイ』の偏り

天井 萌花

『アイ』が足りない

第1話 上手いはずなのに

 私は絵を描くのが好きだ。

 好きこそ物の上手なれというが、まさにその通り。私はすごく絵が上手い。


 そう、心から思っている少女がいた。

 とある高校の特別棟4階。しんと静まり返った美術室にて。

 茶色い髪をひとつに結った少女は、今日も熱心に絵を描いている。


「……出来た」


 少女はふーっと長く息を吐き筆だけを持って立ち上がった。

 窓際の水道で丁寧に洗い、水気を取って乾かす。

 再び戻ってくると、机に置いていた紙パレットを端に寄せ、代わりに鞄から筆記用具と1枚の紙を取り出した。


 “文化祭用 作品紹介シート”と書かれたそれにシャーペンを走らせる。


 2年4組、日高ひだか絵李えり。作品タイトル――。


 も、すぐに手が止まってしまう。

 少女――絵李は顔をあげ、もう一度描き上げたばかりの絵に目を向けた。


 15号のキャンバス。その真っ白な表面を、重厚な油絵具が何重にも覆っている。

 印象的なのは、画面にふんだんに使われた青と白。それから微妙な表情まで描き込まれた灰色だ。

 最前面にいる鳩が、奥に広がる青空に向かって飛んでいく絵。

 そこに浮かんでいる太陽を目指すように、伸び伸びと羽ばたいている。


(うん、よく描けてる)


 空は綺麗ながらも濁りを入れたグラデーションで現実味があり、鳩は羽の模様まで拘って描いている。

 あの日見た光景、あの日撮った写真と比較しても、再現度は高い。

 この絵のタイトルは、この絵にふさわしい言葉とは、一体何だろうか。


「――上手。今回も素敵な絵になりましたね」


 後ろから声が聞こえ、絵李はすばやく振り返った。

 開けっ放しにしていたドアから、美術部の顧問が顔を覗かせていた。


「ありがとうございます。ついさっき完成しました」


「もうすぐバスが来るから、丁度いいタイミングだったのね!」


 絵李の絵をまじまじと見つめた顧問が、柔らかく微笑んだ。

 時計の針は、9時45分を指している。

 今日は部活の一環で隣の市の高校へ行くのだが、そのための集合時間まであと15分になっていた。


「すぐに準備します」


 紹介紹介シートを書くのは後にして、荷物をリュックに詰め始める。

 壁にかけられていた鍵を取った顧問が、「それと、」と言葉を続けた。


「はい、これ。この間応募していたコンクールの結果よ」


 クリアファイルに入ったプリントを差し出され、絵李はばっと顔を上げた。

 焦る気持ちを抑えて丁寧にファイルを受け取る。

 いくらか前に出していた、学生向け油彩画コンクールの結果だ。


 ここに出した手も、かなりの自信作だった。

 いい結果を残していると思いたいが……どうだろうか。


「ありがとう、ございます……」


 絵李は小さな声で礼を言い、ちらりと顧問の様子を伺ってみる。

 にこにことした笑顔は嬉しそうで悪い結果ではないとわかる。

 けれど、とりわけ喜んでいるわけではない。


 すーっと深く息を吸い、吐き出す。

 意を決してプリントに目を落とし、絵李の名前を探した。

 前書きを飛ばし、結果発表のあたり。日高絵李の4文字はすぐに目につく。


「……また、銀賞ですか」


 上から2番目。“銀賞”という文字の横にあった。

 “金賞”の隣にいるのは、絵李ではない誰かの名前。

 色んなコンテストで何度も経験したことだが、やっぱり凹んでしまう。


「十分凄いわよ。おめでとう」


 ぱちぱちと手を叩いてくれる顧問だが、その表情はなんとも言えない。

 嬉しそうに笑っているのだが、その眉は困ったように下がっている。


「……ありがとうございます」


 絵李は出かかった溜息を必死に飲み込み、礼の言葉を絞り出した。

 絵李が少しも喜ばないため、顧問もかける言葉に迷ってしまうのだろう。


 銀賞だって十分すごい。それは、絵李にもちゃんとわかっている。

 けれどどうしてもそれを取れた喜びより、あと1歩及ばなかった悔しさが勝ってしまう。


(今回こそ、1番だと思ったのに)


 絵を描くのが好きで、賞を取れるほど上手い。

 そんな絵李には大きな悩みがあった。

 それは――どうしても、1番になれないことだ。


 幼い頃から絵画に魅了され、毎日絵を描いてきた。

 絵画を習い、当然中高ともに美術部。高校になってからは、美大受験用の画塾にも通い始めた。

 勿論それだけ描いた分、いくつものコンテストに応募している。


「金賞を取った絵、見ますか?」


 困ったように笑った顧問が、もう1つクリアファイルを取り出した。

 中のプリントには、絵李の物も含めた受賞作品の画像が印刷されているのだろう。


「……いえ。見ません」


 短く答えた絵李は、きゅっと唇を噛む。

 押し黙ってこれまでの成績を思い出す。


 前回も銀賞、その前のは佳作、その前は銅賞で、さらにその前のも佳作。

 何年も絵を描いて、何度も入賞しているのに――1番いい賞だけは、取れたことがない。


(……どうして、1番になれないの?)


 今日完成した絵だって、こんなによく描けているのに。

 部活が他校での交流会の今日も、1人だけ集合時間より早く来て絵を描いているのに。


 実力はある、努力もしている。なのにどうして、金賞だけが取れないのだろう。


「……先生、私は、何が駄目なんでしょうか」


「何も駄目じゃないよ。一生懸命頑張ってて、上手で、凄いわ」


 顧問はにこりと微笑んで、優しい言葉をかけてくれる。

 けれど今の絵李が欲しいのは、そんな慰めではなかった。


「そうじゃないんです。私は、どうすれば金賞を――1番を、取れると思いますか?」


 ようやく、プリントから視線が離れた。

 銀賞の文字から解放されても、心の重荷からは解放されなかった。


「うーん、そうだね……」


 小さく唸る顧問は、1番を取る方法を考えているというより――どう伝えるべきか、言葉を選んでいるように見える。


「何でも言ってください。私には、何が足りてないんですか?」


 そんな顧問を、絵李の黒い瞳が真っ直ぐに見つめた。


 これだけ努力しても、届いていないのだ。

 きっと、このままでは一生手が届かない。

 どんな物でもいいから、何かヒントがほしい。


「……日高さんは、デッサンやスケッチ、写生が特に上手だよね。模写とかも上手だったかな」


 ようやく口を開いた顧問に、絵李はこくりと頷く。


「この絵も、まるで本物みたいによく描けてる。日高さんは、何かを再現するのが得意みたい」


「はい」


 顧問の言う通り、絵李は手本通りに描くのが得意だ。

 形、色、質感。その全てに拘り、本物に近づけている。

 それが駄目なのだろうか。いや、何も駄目ではないと言ったのだったか。

 なら、どうして今この話をするのだろう。


「では、ここで問題です。私達はどうして絵を描き、絵画を鑑賞するのでしょうか?」


 顧問はぴんと人指し指を立て、首を傾げた。

 突然のクイズ大会に、絵李は固まりかけた頭を必死に回転させる。


 どうして絵を描くのかと聞かれれば。


(楽しいから、だけど)


 絵李の答えは好きだから、楽しいからなのだが。

 今聞かれているのはそういうことではないだろう。


「……描くのは、自分がいいと思った光景を残したり、誰かに伝えるため? 鑑賞するのは……それを伝えられるため、ですか?」


「それもひとつの理由だね。特に昔は写真で記録することが難しかったので、絵は記録するために描かれたのでしょう」


 絵李の言葉を優しく肯定し、顧問は「でも」と続ける。


「今は誰でも写真を撮って見せられるから、光景をそっくりそのまま伝えるには、写真の方が適してるんじゃないかな?」


「それは……そう、です……」


 真っ直ぐに視線を合わせていた絵李が、ふっと俯いてしまった。

 絵李は自分の見た物に、撮った写真に、限りなく近い物が描ける。

 それは紛れもなく彼女の強みであった。


「では、ここで別の問題。上手な絵、コンテストで金賞を取れるような、見た人の心に残るような絵――それに必要な物は、なんでしょうか」


「それは――」


 写実性、と答えようとして、言葉が詰まった。

 絵李がずっと磨いてきた、絵李の強み。

 リアリティという観点では、大人にだって負けない自信がある。


 なのにいつまでも1番になれないのは――この問いの答えが、それではないからだ。


「……私に足りないのは、それなんですね」


 まるで写真のような、本物そっくりな絵が、上手い絵だと思っていた。

 きっとそれは間違っていない。

 絵李の絵は、間違いなく上手い。


 けれどもっと上手い絵を描くためには、もっと他の要素が必要なのだろう。


「そのままの光景を飾るなら写真でいい。自分の見たものを伝えるには、本物を見てもらうが1番。なのに、何故人は絵を描き鑑賞するのか。それは――絵画が、作者の自己表現の場でもあるからよ」


 真剣な声色を聞き、絵李は黙り込んでしまった。

 顧問はそんな絵李に、少し申し訳なさそうに――けれどもはっきりと、畳みかけるように言った。


「日高さん、あなたの絵には――自我が、足りていないんじゃないかな」

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