第33話

 翌日の空は明るく、朝食を食べ終え旅館の外へ踏み出すと雲の隙間から太陽の光が差し込む。

 夜はなかなか寝付けず、流星の曇った心が晴れることはなかった。

 寝不足か心労か、目の下に隈が現れているのを一華は申し訳なく思う。

 一華はそれとなく話題を振ってみるものの、昨日よりも心と体の距離ができているため流星の反応はぎこちない。

 普通に接しようとしてくれているが、上手くできていない。

 それは一華も同様で、告白してきた男を前にしていつも通りにできず、距離をとってしまう。話題を出してみるが、「晴れてるね」「眩しいね」「寒いね」の天気に関することで、独り言のような話に流星は相槌を打つしかない。


 息苦しさが残る距離感を保ったまま、奈世のいる駄菓子屋に到着した。

 一華は引き戸を開けて入ると、煙の臭いがした。奥でぼうぼうと小さな音を立ててストーブが赤く光っている。たった今点けたようだった。

 窓を閉め切っているため外よりは寒さを感じない。

 奈世の名前を呼びながら奥へと進み、畳には上がらず奈世の返事を待つ。

 台所の方から「座って待っててー」という言葉がお茶を用意する音と共に聞こえたため、昨日と同じ位置で奈世を待つ。


 数分すると奈世は盆にお茶を三つ乗せてやってきた。

 各々の前に湯飲みを置き、奈世が座ると早速「決まった?」と一華に問う。


「はい。よろしくお願いします」

「本当にいいの?」


 覚悟をしてこの村にやってきた。自分にできることがあるなら何でもやる。

 流星の前で平静を装っていたけれど、正直、怖くて震える。

 喋れなくなる生活なんて想像できない。まだ二十年も生きていないのに、残りの数十年を声無しで生きていかなければならない。現実味がない。

 これからどうなるのか、どう生きるのか、翔真にどう説明しようか。

 未来は暗く、何も見えない。

 怖い。

 それでも、翔真にまたサッカーをしてほしい。並んで歩きたい。それを一番望んでいる。ならば、自分のとる選択肢は一つしかないだろう。


「お願いします」


 今、自分は震えていないだろうか。

 せめて流星には気づかれたくない。

 なんでもないように装った。怒鳴りもした。偉そうにしておいて、実は怯えているなんて恰好悪くて晒せない。


「そういえば、昨日言い忘れていたんだけど、実はその幼馴染の分身が必要なのよ。例えば、爪とか皮膚の破片とか、あとは髪の毛とか」

「持って来てます」


 旅行中、一度も鞄の中から取り出すことのなかった、和紙に包まれた髪の毛を渡した。

 奈世は中身を確認し、和紙の上に髪の毛を乗せると、立ち上がって階段を上った。二階から下りてきた奈世は、部屋の窓を開けてまわり、手に持っているものを二人に見せる。


「この紙と鉄板とライターと、今貰った髪の毛を使うの」


 魔法が始まる。

 二人は緊張で心拍数が上がる。

 流星は一華が心配になり、顔だけ動かして隣を向くと、掌が握られて小さく震えていた。何故か涙が出そうになり、下唇を噛みしめて一華の拳の上に自身の手を重ねた。

 二人の視線は奈世から外さない。


「今からこの紙に髪の毛を包んで燃やすから」


 黒い鉄板の上で髪の毛を模様が描かれている紙で包む。

 左手でその紙を持ち、右手にライターを持つ。


「本当に、いいんだよね。これが最後の確認」


 もう後には引けない。

 心臓が暴れ呼吸にまで影響を与えている。

 息を吸って吐く音が流星にまで届き、包んでいた手が握るように掴む。


 特に呪文を唱えることなくライターの炎で紙を燃やした。

 奈世の手から燃える紙が落ち、黒い鉄板の上で焦げた臭いを放ちながら赤く光る。


「これが全部燃え尽きて炎が消えたと同時に、願う者の声も消える」


 薄い和紙なのですぐ燃え尽きるかと思いきやなかなか燃えず、端が焦げて黒くなっている程度だ。


「魔法に使う和紙だからね、燃えるのに時間がかかるの」


 こんなもので本当に一華の声と引き換えに翔真の足が治るのか。流星は半信半疑だった。

 翔真の髪の毛を燃やしたのはそれっぽいが、一華の髪の毛も燃やすわけではないし、どうにも信用できない。


「条件として、願い人は半径三メートル以内にいること。これだと、君も当てはまるんだけど、人魚ちゃんがわたしに願いを持ちかけた時点で魔法はもう動き出しているの。だから半径三メートル以内にいるからといって、君に魔法はかからない」

「…そうですか」

「他に気になることは?」

「…特に」

「そう?気になることがまだあるみたいだけど。付け足すなら、この和紙はわたしが作った特別なものなの。一枚作るのに一か月かかるのよ。最初の魔女も同じやり方で魔法を使っていたのかは諸説あるけどね」


 このやり方は母と祖母がやっていて、それを受け継いだの。曾祖母も同じだったと聞いてるわ。和紙って何十年、何百年、長くて何千年と保管できるの。曾祖母の実家から出てきた和紙にはこれとは違う模様だったから、きっと魔法も色々あるのね。曾祖母の話だと、方位磁石を使っていた魔女も存在したみたい。

 なんで代償が声かというと、それはわたしにも分からないの。医学の力でどうにもならない体の一部を治すなら大体声なのよね。指を切り落としたから生やしてほしい、白髪を黒髪に戻したい、っていう願いも声が必要になるわ。紛失した物を見つけたいとか、それくらいの願いなら髪の毛数本かな。紛失した物にもよるけどね。


 炎が鉄板の上からなくなるまで、奈世はずっと饒舌に喋っていた。

 徐々に黒くなっていく和紙をただ眺めるのは、ギロチンにかけられていつ刃が落ちてくるのか待っているようなものだ。

 少しでも恐怖心をなくさせるための、奈世なりの配慮だった。


 鉄板の上に焦げたかすがぱらぱらと散らばっている。

奈世は棚の上に寝かせていた回覧板を左右に振り、残った煙の臭いをかき消す。

 黒い塵が風に負けてふらふらと鉄板の上を彷徨っている。

 自分の身に変化は感じられず、ごくりと喉を鳴らす。

 口を軽く開けて、生まれた瞬間から持っている声を発してみる。


「…」


 音が出ない。

 息を吐いているだけで、その息に声が乗らない。

 風邪をひいて声が掠れて出ない、あの感じに近かった。


 母から生まれた瞬間、おぎゃあと発してから今日まで持っていたものが、炎が消えただけで自分の元から去ってしまった。

 ということは、翔真は今喜んでいるだろう。足が動くようになり、きっと泣いて喜ぶに違いない。


 一華は、両目から頬に流れる涙が自分のどんな感情によって流れているのか、分からなかった。

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