二
総選挙の投票日直前のある日。
尾崎のもとに、政府の刺客がやってきました。
「尾崎行雄さんですね」
警官は徒党を組んで、尾崎の家にやってきました。
警官の一人は、淡々と命令してきました。
「あなたに不敬罪の容疑がかかっております。署までご同行願えますか?」
尾崎は、ふと、昔の記憶を思い出しました。
あれは、まだ議会すら始まっていなかった時代。
星亨と大同団結運動をやっていた最中、尾崎は保安条例によって東京から追い出されました。
そのときに、今と同じように、警官がやってきて、署までご同行をと言ってきたのでした。
あのときも無抵抗で連行されたのです。今更暴力で訴える気は有りません。
ただ、尾崎は警官らの、――その上に君臨しているであろう東条の思惑を察して、心の中だけで呟きました。
選挙の当選を阻むために、警官を差し向けたな、と。
さて、尾崎は大人しく警官についていきました。
署につくと、尾崎が気になっていた罪状について説明がありました。
それを聞いた途端、尾崎は思わず笑ってしまいました。
警官はぎろりと尾崎を睨みます。
「何がおかしいっ| いくら貴様が議員だからといって、いや、議員だからこそ、我らが天皇陛下を貶す権利はないのだぞ|」
尾崎は落ち着き払って返事をします。
「いえ、何から何まで、昔に経験したようなことばかりでしたので」
尾崎の罪状。
それは、「売り家と 唐様で書く 三代目」の川柳でした。
読者の皆様は不思議に思ったでしょう。
尾崎本人が説明している通り、この川柳は昭和の時代になって立憲政治をつぶそうとする東條英機を批判するため、引用してきた川柳です。
天皇陛下は関係ありません。
ですが、そこは何が何でもおざきを捕まえたい国家権力様です。
なんと、「三代目」の部分は天皇陛下自身を表しており、陛下のご親政を批判している| つまり不敬罪| などという解釈をしてきたのです。
ああ、懐かしきや。
あれは第一次大隈重信内閣のとき。
文部大臣であった尾崎行雄は、「日本が共和制になったら、大企業の頭首が大統領になっている」といった発言をしました。
この記事を、まだデレていない時代の星亨が見つけました。
大隈内閣を何が何でも潰したかった星は、この発言を切り抜きし、「尾崎は日本を共和制にしようとしている|」と批判したのです。
まさに今の状況は、それと同じです。
警官は尾崎を犯罪人とばかりに睨みつけます。
「陛下を侮辱した罪は非常に重い。起訴の手続きを取らせてもらう。今夜は拘置所で過ごしてもらおうか」
尾崎は、おお、と思いました。
拘置所住みは、始めての経験です。
昔は、拘置所に突っ込まれたら病弱な自分はすぐに死んでしまうだろうと恐れいたな、と思い出します、
幸い、今の拘置所は昔と比べると環境が整っていました。
それに、高齢となった尾崎でも、さすがに一泊程度でしたら耐えられます。
素直に牢屋の中に入り、この際だからと思案します。
警官は、尾崎のことを起訴するといっていました。
本来ならば、こんなしょうもない切り抜きの罪、有罪にはなりません。
ですが、今の日本は東条ら軍人によって掌握されています。
司法は行政から独立するのが原則ですが、まあ、無理でしょう。
有罪になれば、一日どころではない、何年にもわたる牢屋生活がはじまります。
……いや、実際には何年も拘留はされないでしょう。
日本が米英相手に、何年も戦争するわけないのですから。
尾崎は決意しました。
刑が執行されるのなら、甘んじて受け入れよう、と。
ですが、黙って有罪判決を受けるつもりも、毛頭ありませんでした。
色々考えているうちに、あっという間に一日が過ぎました。
解放され、自宅で待機します。
その間に、選挙の集計が完了し、結果が出ました。
尾崎行雄は、大政翼賛会の非推薦候補ながら、見事当選を果たしました。
国家権力を使って当選を阻止しようとしたにもかかわらず、これです。
これには尾崎も喜ぶだろうと思いましたが、なんと、尾崎は憂鬱そうにため息を付いていました。
当選したことを憂いているのではありません。
他の当選者の名前を見て、尾崎は嘆息していたのです。
尾崎以外にも、非推薦人で当選した人はいましたが、数としては非常に少なくなってしまいました。
国民が票を入れたのは、大政翼賛会が支援した人ばかりでした。
太平洋戦争の一番の原因は、軍部の暴走、そしてそれを止められなかった官僚にあります。
ですが、彼らを野放しにするばかりでなく、一票を投じて支援してしまう国民にも、責任があると尾崎は思いました。
この日本は、果たしてどこまで荒れ果てるか。
無実の尾崎が起訴され、何も考えていない政治家が当選してしまう、この日本は、どこまで落ちていってしまうのでしょうか。
願わくば。
長生きさせてほしい。
これからの日本がどうなるか、しかとこの目で捉えたい。
それが。
戦争を止められなかった、尾崎行雄の、たった一つの願い事でした。
当選したにも関わらず、尾崎は議会に足を向けることもできず、裁判に追われる羽目になりました。
さすが尾崎行雄。
裁判上でも、尾崎は堂々たる演説を繰り出しました。
裁判長の迷惑そうな顔なんて、知ったことでは有りません。
演説を終え、判決の言い渡しです。
残念なことに、尾崎は懲役八ヶ月、執行猶予2年の判決を受けてしまいました。
しかし、そんなことで凹む尾崎では有りません。
犬養の墓前で、ちゃんと約束しているのです。
自分の道を、突き進むと。
◯◯◯
尾崎が荒唐無稽な罪に問われている間に、日本は敗戦を重ねていました。
ミッドウェー海戦での敗北を皮切りに、ガダルカナル島でアメリカに反撃されてしまいました。
徐々に、日本本土空襲の危機が迫っていました。
しかし、軍部はまだまだ戦争の継続を願っていました。
たとえ民族が滅ぼうとも、戦争を続けると胸を張って宣言していたのです。
勝利に固執し、国を守る義務を忘れてしまったのです。
こちらもこちらで荒唐無稽な思想の人々でございますが、誰も彼もが軍人の思想に追いつけません。
長く続く戦争に、長く続く物資統制に、国民のなかには戦争に嫌気がさす者も出てきました。
人々の中に潜んでいたわずかながらの良心も、芽を出そうとしているのでしょうか。
尾崎の控訴によりはじまった二度目の裁判は、尾崎の無罪で幕を下ろしました。
まだまだ尾崎に対する締付けは維持したままです。
尾崎は演説もできず、書籍の出版もできず、演説さえも許されませんでした。
ですが、こんな処遇も、もうすぐ終わります。
時が流れども、日本は敗北を重ね、主要都市がいくつも空襲を受けました。
それでも諦めない日本政府――いや、軍部に襲いかかってきたのは、原子爆弾でした。
広島、長崎に投下され、東京にも落とされるのではないかとデマも広がる中、ようやく政府は本土決戦を諦め、ポツダム宣言の受諾を飲み込みました。
こうして。
太平洋戦争は、尾崎が避けたいと思っていた悪夢を現実にさせて、終幕したのでした。
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