5
尾崎は一人寝室で横になっていました。
演説も封じられ、政党は解党し、日本は破滅の道へと進んでいきます。
尾崎が恐れていた事態が、刻一刻と近づいているのです。
寝室のランプをじっと見つめます。
心の中の暗闇は、一向に晴れません。
むしろ、時間が立つごとに、暗闇はどんどん濃くなり、広がっていきます。
尾崎は思います。
もはや、何もしないほうがよいのでしょうか。
犬養死後、懸命に動き回っていた、その気力が、次第にすぼんでいきます。
「……」
未来は、もう、何も見えません。
尾崎は一時的な救いを求めて、過去を振り返りました。
これまで尾崎は、大変な努力を続けていました。
その間、いろんな人に嫌われました。
色んな人に勘違いされました。
反対に、世間から持て囃されていたときもありました。
そう、第一次護憲運動のときはとても楽しかったです。
議会で桂の鼻を明かしたときは、本当にスッキリしました。
あのときは、原に演説するなと押し付けられたが、つい我慢できずに演説してしまいました。
もちろん、長い政治家人生で、尾崎は失敗も犯してしまいました。
一番の失敗は、なんといっても、加藤高明が主導した対華二十一か条の要求に賛成してしまったことでしょう。
それで尾崎は、首相にも大臣にもなるのも諦めました。
あのときの後悔を思い出してしまい、尾崎は唇を噛み締めます。
あれは、一生の後悔でした。
自分が正しいと思ったことを貫けなかった、大変な失敗でした。
……ふと尾崎は、遠い昔に亡くなった、星亨のことを思い出していました。
晩年の星は、自分のようになりたいと漏らしていたと聞いて尾崎のようになりたいと話していました。
そんな噂を聞いた当初は、「あの自信過剰な星らしくないな。嘘くさい」と思っていました。
今なら、少なくともあのとき、星は自分のようになりたいと思ってくれていたと察していました。
とはいえ、人はどうあがいても変わりません。
自分は、星のように賄賂をせっせと受け取るような人間には到底なれません。
反対に、星は自分のようにはなれないでしょう。
そう、自分のように。
……世間から嫌われようとも、何を言われようとも、自己の主義をただただ愚直に貫くような男に。
「……」
尾崎行雄の、主義。
それを貫いたところで、
……世の中は、変わりません。
ならば、自分は軍国主義にでもなるのでしょうか。
それとも、幼い頃のように、誰にも軽蔑されず、誰にもいじめられないよう、無言を貫くのでしょうか。
……。
…………。
………………犬養さん、ならば。
もし、犬養さんが、この時代この場にいたのならば。
あの人は、なんという?
大勢の軍人が押し寄せても、銃を向けられても、犬養は、軍人らと話し合おうとしていました。
犬養は利口な人です。
武器を持った軍人を見て、説得できやしないと思っていたに違いありません。
それでも、彼は議論を持ちかけました。
「……ふふっ」
尾崎は、ゆっくりと寝具を払い除けました。
外に出ました。
夜の冷たい風が、尾崎の頬を撫でます。
尾崎は星々を、
いつか登るであろう太陽を、見つめていました。
翌朝。
尾崎は、犬養の墓に向かっていました。
帰国直後に来たときは、沈鬱な気分で体がひどく重く感じていました。
今は、違います。
尾崎はあぐらをかきます。
家で保管していた日本酒を開けて、おちょこに注ぎます。
たっぷりと器をうめると、犬養の墓に置きます。
自分の分も、ほんのひとくち分。注ぎます。
「犬養さん。実は、何をしてもどうしようもないと、落ち込んでいたんですよ。これまでやったことも、すべて無駄だったとまで思っていました」
けれど。
尾崎は、変わらない男なのです。
いつだって、「GO ING MY WAY」なのです。
ならば、迷うことなどないのです。
「私は、気づきました。これまでのことはこれからの経験に過ぎないんです」
昨日までの仕事は、今日以後の準備行為にすぎません。
例え六十歳になったとしても。
七十歳になったとしても。
百歳になったとしても。
それは、変わらないのです。
尾崎は、おぞましい暗闇の中で、まっすぐ、前を見ていました。
「犬養さん。私は、死ぬまで本気でやります」
いつかあなたと出会うときに。
胸を張って、議論が出来るように。
「……」
おちょこを持つと、犬養のおちょこに軽く当てます。
こつん、と軽やかな音が鳴りました。
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