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……しばらく、何も聞こえませんでした。
視界が真っ黒になる、とはまさにこのことでしょう。
犬養さんが、暗殺。
……犬養さん、が……。
大使館の人は、次々と情報を教えてくれました。
いわく、犬養のやり方に軍部の一部が不満に思っていたこと。
軍人たちは何人もの集団で首相官邸を訪ねたこと。
犬養さんは、話し合いを呼びかけたこと。
軍人らは、……話さえ、聞こうとしなかったこと。
「……」
嘘だと、言ってほしい。
夢ならば、早く覚めてほしい。
しかし。
嘘だとは、誰も言ってくれません。
悪夢は、なおも尾崎の眼の前に広がっています。
ならば。
尾崎は、何をなすべきか。
「……」
彼は、迷うことなく、決断しました。
日本へ、帰らなくてはならない、と。
◯◯◯
尾崎の二人目の妻は、……病気で、なくなりました。
尾崎は、手には亡き妻の骨壺を。
懐には、遺書代わりの著書を。
胸には、決死の覚悟を抱いていました。
犬養の死から、数カ月はたっていました。
その間に、犬養を殺した人物らにも刑が下りました。
非常に非常に、軽い刑です。
あと数年すれば、牢屋から解放されるほどに、軽い刑でした。
現役の首相であり、衆議院での多数を率いる政党のトップを殺しておいて、この体たらくです。
もはや、日本には首相なぞ、ただのお飾りでした。
政党など、時代遅れの集合体でした。
民主主義など、捨て去るべき異端でした。
軍費節減を訴える尾崎行雄など、大日本帝国にとって、無用の人物でした。
それでも。
尾崎は、帰国を決意しました。
周りの人はそれはそれは制止しました。
「今、日本に帰国しては、死にに行くようなものだ。イギリスに避難していたほうがいい」
……それが、真実でした。
尾崎だってわかっていました。
自分がいま帰国すれば、多数の「愛国者」が命を奪おうと迫ってくるでしょう。
ですが、尾崎は優しいアドバイサーに、こう返しました。
「イギリスがいかに安全地帯でしても、いつまでもここにいるわけにはいきませんよ」
尾崎は当然のように、こう言いました。
「私には、祖国がありますから」
尾崎は帰国を遅らせ、とある著書を仕上げました。
そのタイトルは、
――墓標に代えて。
その一部は、英国の新聞に載りました。
国際世論に背を向ける日本への警鐘を込めた意見書は、最後にこう締めていました。
協調か、孤立か。
門戸開放か、門戸閉鎖か。
世界の読者よ請う。
これを充分に考慮して、道を誤らざらんことを。
自らの墓標をしっかりと読み直し、甲板に出ました。
もうそろそろで、日本に到着します。
目を凝らせば、大地がかすかに視界に映ります。
その大地は、尾崎が愛する祖国。
その大地は、彼の親友を葬った国。
その大地には、……もう、犬養はいません。
帰って落ち着いたら、犬養さんの墓参りをしなくては。
それまでに、自分が生きていれば、の話ですが。
もう少し祖国を眺めていたかったですが、護衛の人が慌てた様子で駆け寄ってきました。
「尾崎さん、船内にお戻りください」
「上陸準備ですか?」
「それもあるんですが……」
ちらりと日本の方を見ます。
「……実は、尾崎さんを上陸させまいと、大勢の人が港で待ち構えてるのです。尾崎さんが甲板にいると知られたら、連中が何をしてくるか」
「別に私は何をされても構いません。その覚悟で来ましたから」
命の危険をちらつかせても、尾崎には無駄でした。
政府高官の中には、我が身愛しさに、軍人の強弁にだんまりを決め込む人物もいました。
尾崎は違います。
真に、命をかけて、日本を救おうとしているのです。
護衛の人は一瞬黙ってしまいました。
けれど、尾崎の命をみすみすここで失わせるわけにはいきません。
「……尾崎さん、お願いですから、船内に戻りましょう。そうでないと、上陸を取りやめねばなりませんよ」
「なんだ、私は護衛の人に脅されているのか」
尾崎は苦笑して肩をすくめます。
これ以上意地悪しては可愛そうだと思ってくれたか、今度は素直に戻ってくれました。
船は滞りなく、港にたどり着きました。
船を出た尾崎を待ち構えていたのは、
「国賊尾崎! 日本から出ていけ!」
「英米の密偵め!!」
怒号。
謂れのない罵声。
いたるところに、尾崎を批判するのぼり旗を掲げています。
「……」
ここまで歓迎されないのは始めてかもしれません。
警官がどうにか抑えてくれていますが、何が起きてもおかしくはない状況です。
警官の一人が、尾崎の耳元でささやきます。
「尾崎さん、このまま上陸するのは危険です。海路で静かな場所に行きましょう」
「ふむ……。そうだな。そうしたいところだが」
ぽん、と尾崎はお腹を擦ります。
「少し、お腹が空いたな」
「……へ?」
街でランチを食べることにしました。
「いやいやいや、尾崎さん! 危ないですって!!」
警備の人が早く出ましょうと促しても、尾崎は素知らぬ顔です。
美味しそうにお米を頬張ります。
「うん、久しぶりに食べる日本食は美味しい」
明治の時分に比べると、イギリスにおいても日本食にありつける機会は増えました。
けれど、やっぱり日本で食べる日本食のほうが美味しいです。
「君たちも食べたらどうですか? これからまた船旅ですから、体力をつけておかないといけませんよ」
新鮮な刺し身に舌鼓を打ちます。
「うんうん、美味しい。君も一切れ食べてみると良い」
「……は、はあ」
警備の人は、差し出されるまま、刺し身を食べました。
味は全く感じませんでした。
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