3

 ……しばらく、何も聞こえませんでした。


 視界が真っ黒になる、とはまさにこのことでしょう。


 犬養さんが、暗殺。


 ……犬養さん、が……。


 大使館の人は、次々と情報を教えてくれました。


 いわく、犬養のやり方に軍部の一部が不満に思っていたこと。


 軍人たちは何人もの集団で首相官邸を訪ねたこと。


 犬養さんは、話し合いを呼びかけたこと。


 軍人らは、……話さえ、聞こうとしなかったこと。


「……」


 嘘だと、言ってほしい。


 夢ならば、早く覚めてほしい。


 しかし。


 嘘だとは、誰も言ってくれません。


 悪夢は、なおも尾崎の眼の前に広がっています。


 ならば。


 尾崎は、何をなすべきか。


「……」


 彼は、迷うことなく、決断しました。


 日本へ、帰らなくてはならない、と。


◯◯◯


 尾崎の二人目の妻は、……病気で、なくなりました。


 尾崎は、手には亡き妻の骨壺を。


 懐には、遺書代わりの著書を。


 胸には、決死の覚悟を抱いていました。

 

 犬養の死から、数カ月はたっていました。


 その間に、犬養を殺した人物らにも刑が下りました。


 非常に非常に、軽い刑です。


 あと数年すれば、牢屋から解放されるほどに、軽い刑でした。


 現役の首相であり、衆議院での多数を率いる政党のトップを殺しておいて、この体たらくです。


 もはや、日本には首相なぞ、ただのお飾りでした。


 政党など、時代遅れの集合体でした。


 民主主義など、捨て去るべき異端でした。


 軍費節減を訴える尾崎行雄など、大日本帝国にとって、無用の人物でした。


 それでも。


 尾崎は、帰国を決意しました。


 周りの人はそれはそれは制止しました。


「今、日本に帰国しては、死にに行くようなものだ。イギリスに避難していたほうがいい」

 

 ……それが、真実でした。


 尾崎だってわかっていました。


 自分がいま帰国すれば、多数の「愛国者」が命を奪おうと迫ってくるでしょう。


 ですが、尾崎は優しいアドバイサーに、こう返しました。


「イギリスがいかに安全地帯でしても、いつまでもここにいるわけにはいきませんよ」


 尾崎は当然のように、こう言いました。


「私には、祖国がありますから」


 尾崎は帰国を遅らせ、とある著書を仕上げました。


 そのタイトルは、


 ――墓標に代えて。


 その一部は、英国の新聞に載りました。


 国際世論に背を向ける日本への警鐘を込めた意見書は、最後にこう締めていました。


 協調か、孤立か。


 門戸開放か、門戸閉鎖か。


 世界の読者よ請う。


 これを充分に考慮して、道を誤らざらんことを。


 自らの墓標をしっかりと読み直し、甲板に出ました。


 もうそろそろで、日本に到着します。


 目を凝らせば、大地がかすかに視界に映ります。


 その大地は、尾崎が愛する祖国。


 その大地は、彼の親友を葬った国。


 その大地には、……もう、犬養はいません。


 帰って落ち着いたら、犬養さんの墓参りをしなくては。


 それまでに、自分が生きていれば、の話ですが。


 もう少し祖国を眺めていたかったですが、護衛の人が慌てた様子で駆け寄ってきました。


「尾崎さん、船内にお戻りください」

「上陸準備ですか?」

「それもあるんですが……」


 ちらりと日本の方を見ます。


「……実は、尾崎さんを上陸させまいと、大勢の人が港で待ち構えてるのです。尾崎さんが甲板にいると知られたら、連中が何をしてくるか」

「別に私は何をされても構いません。その覚悟で来ましたから」


 命の危険をちらつかせても、尾崎には無駄でした。


 政府高官の中には、我が身愛しさに、軍人の強弁にだんまりを決め込む人物もいました。


 尾崎は違います。


 真に、命をかけて、日本を救おうとしているのです。


 護衛の人は一瞬黙ってしまいました。


 けれど、尾崎の命をみすみすここで失わせるわけにはいきません。


「……尾崎さん、お願いですから、船内に戻りましょう。そうでないと、上陸を取りやめねばなりませんよ」

「なんだ、私は護衛の人に脅されているのか」


 尾崎は苦笑して肩をすくめます。


 これ以上意地悪しては可愛そうだと思ってくれたか、今度は素直に戻ってくれました。


 船は滞りなく、港にたどり着きました。


 船を出た尾崎を待ち構えていたのは、


「国賊尾崎! 日本から出ていけ!」

「英米の密偵め!!」


 怒号。


 謂れのない罵声。


 いたるところに、尾崎を批判するのぼり旗を掲げています。


「……」


 ここまで歓迎されないのは始めてかもしれません。


 警官がどうにか抑えてくれていますが、何が起きてもおかしくはない状況です。


 警官の一人が、尾崎の耳元でささやきます。


「尾崎さん、このまま上陸するのは危険です。海路で静かな場所に行きましょう」

「ふむ……。そうだな。そうしたいところだが」


 ぽん、と尾崎はお腹を擦ります。


「少し、お腹が空いたな」

「……へ?」


 街でランチを食べることにしました。


「いやいやいや、尾崎さん! 危ないですって!!」


 警備の人が早く出ましょうと促しても、尾崎は素知らぬ顔です。


 美味しそうにお米を頬張ります。


「うん、久しぶりに食べる日本食は美味しい」


 明治の時分に比べると、イギリスにおいても日本食にありつける機会は増えました。


 けれど、やっぱり日本で食べる日本食のほうが美味しいです。


「君たちも食べたらどうですか? これからまた船旅ですから、体力をつけておかないといけませんよ」


 新鮮な刺し身に舌鼓を打ちます。


「うんうん、美味しい。君も一切れ食べてみると良い」

「……は、はあ」


 警備の人は、差し出されるまま、刺し身を食べました。


 味は全く感じませんでした。


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