③
尾崎は、いつの日か自分は首相になる男だと願っていました。
というより、オタマジャクシがカエルになるように、尾崎は自分が首相になると確信していました。
ですので、第一次大隈内閣の時分に若くして大臣に任命されたときも、そろそろ乳歯が抜ける頃かとしか思いませんでした。
彼の天狗の鼻がくじかれたきっかけは、第一次世界大戦のはじまりでした。
第一次世界大戦がはじまると、大隈、いえ、加藤は参戦を決めました。
もちろん、加藤にはある思惑がありました。
ドイツの租借地であった山東省を、日本の影響下に収めることです。
名目上、日本は中国に返却するためにドイツと戦ったと宣言しました。
当然、単なる名目で、中国サイドも「あっ、こりゃ嘘だ」と気づいていました。
第一次世界大戦で忙しい欧米各国も、「あっ、俺等がアジアを監視できないタイミングで陰謀しているぞ」と悟りました。
日本国内の人たちも、「こりゃ領土拡大だぜ!」と喜んでいました。
誰も、中国のための戦争だと考えていませんでした。
ドイツ兵は突然の日本軍の進軍に耐えきれませんでした。
山東半島は瞬く間に日本の手に落ちました。
さて、名目上は中国に返還してあげる慈善事業でしたので、外務大臣の加藤高明は交渉に入りました。
このときに、加藤が提示したのが、日本近代外交史最大級の失敗、対華二十一か条の要求でした。
加藤は中国に突きつける前に、第二次大隈内閣の閣僚たちに試案をみせました。
おそらく加藤は尾崎のことを好いていませんでしたが、一応、同じ大臣ですので、彼にもみせてあげました。
なになに? と要求文章をみて、
尾崎は、固まりました。
「なっ、なんだこの内容……!」
二十一か条の要求は、みてわかる通り二十一の要求が大きく五つにわかれておりました。
一つ目から四つ目は、中国には可愛そうですが、当時の世界情勢を鑑みれば妥当な範囲でした。
ドイツが山東省に持っている権益を日本がもらうこと。
鉄道の敷設権を日本に許すこと。
日本が旅順などに持つ租借地の期限を延ばすこと。
などなど。
……しかし。
五つ目の条項が、尾崎の目を引きました。
中国政府の政治・経済・軍事顧問として、日本人を招く、と記されていたのです。
政治に疎い読者の方でも、政治経済軍事を他国の人間の指導下に入ると考えれば、傀儡国家への一歩を歩むことになると理解できるでしょう。
中国は欧米の関心が非常に高く、日本の独断専行が許される土地ではありません。
尾崎は肩を怒らせて猛烈に反対します。
「こんな案を通しては、中国の反日活動が活発になりますし、欧米諸国に日本の野心を警戒されるに違いありません。絶対に反対です」
尾崎にとっては正しい意見。
国際社会のなかでも、正しい意見ですし、この場に原や犬養がいても、尾崎と同じ意見を述べるでしょう。
しかし。
ここは、加藤高明の独壇場。
他の閣僚も、尾崎よりは加藤の肩を持つ人達ばかりです。
加藤高明という男は、インテリイメージを凝縮させたような人物でした。
メガネですし、気難しそうですし、なによりもメガネでした。
子供向けアニメで、盆栽をぶち壊されて怒鳴るおじさんがいますよね? あんな感じの見た目でした。
加藤おじさんは「これだから政治もできんやつは」といったように冷ややかな視線を向けます。
「尾崎君。なにもこの条項すべて中国に飲ませるつもりはない。多少のみこめば良いだけ。全てが全て実現するとは誰も思ってない」
「こんな条項を突きつけること自体が不穏当です」
「はあ……」
加藤は面倒くさそうにため息を付きます。
「もう少し細かくご説明なさったほうがよろしいようで。これは交渉に当たる外交官の見本に過ぎない。それに、中国人相手だからな。これくらい強硬に出ないと、日本はその程度かと見くびられてしまいます」
おや、加藤ったら、中々危うい発言をなされましたね。
もちろん、作者の私はこんなことは思っていません。
読者の皆様も、中国に対してあれこれ思う人もいるでしょうが、上記の認識の人はそこまでいないでしょう。
ならばら加藤が中国人蔑視の政治家だったのでしょうか。
いえ、違います。
中国人には強硬に当たるべし、なんて発想は、この時代の日本人の共通認識でした。
清末の弱体化した中国像が悪さをしているのか否かは定かではありません。
さらに加藤は、こんな事を考えていました。
もし欧米の政治家があれこれ言ってくるなら、棚ぼた狙いの五つ目条項は隠せばよいのだ、と。
卓越した外国の外交官でさえ騙そうとしているのです。
外交の「が」の字も知らない尾崎を丸め込むのは容易な作業でした。
尾崎はちらりと大隈の様子をうかがいます。
彼はさっと視線を逸らします。
尾崎を味方する人は、この場にいませんでした。
ついに、尾崎は多数決に屈しました。
「……単なる指針だと言うなら、……わかりました。認めましょう」
「なら、とっとと交渉を開始しよう。善は急げ、だ」
一度承認をもぎ取れば、尾崎なんぞと会話する暇はありません。
加藤は大隈と軽く相談した後、交渉の手続きを始めました。
「……」
尾崎の胸が、チクリと痛みました。
本当に、これでよかったのでしょうか。
よくない、と尾崎の心が叫びました。
けれど、理性が押さえつけます。
仲間との仕事とは、多少自分と異なる考えをも飲み込む寛容さが必要なのです。
尾崎がいずれなるべき首相には、……人に仕事を任す決断が必要不可欠、なのです。
それに、外交のイロハに詳しくないのも事実です。
尾崎は、ぐっと、こらえました。
我が道を、踏み外したのです。
……それがもたらしたものは、彼の人生最大の「失敗」でした。
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