②
山本権兵衛内閣はなんやかんやあって倒閣しました。
立憲政友会の原敬は、これほどまでに官僚に媚を売っているのだから、次の首相は自分の番かなとほんの僅かながら妄想していました。
まあ、違いましたが。
これが海軍の人間なり陸軍の人間なり、非政党内閣でしたら原も、「まだ時期ではないのだ。今回も政府と手を結ぼう」と考えていたことでしょう。
残念! 次の内閣は原が大っっっ嫌いな大隈重信だったのです!!
原は絶句しました。
ついでに新聞各社も、意外な人物の擁立にびっくりしました。
当時の日本で、首相就任者を決めていたのは、山県有朋でした。
彼は原のことを異常に警戒していました。
さらに、山本首相をあまりに庇っていた原は、国民からは反感を持たれてしまいました。
原敬めぶっとばすと息巻いた国民は、なんと議会を包囲し、原を閉じ込めました。
最初、原は陸軍に助けを求めました。
ですが陸軍は、海軍軍人の山本権兵衛も政党員の原敬も嫌いでした。
ですので、あれこれ言い訳してサボタージュしました。
原は陸軍の助けを諦め、警官の派遣を要求しました。
当時の原は内務大臣、内務大臣は警官の指揮権を持っていました。
警官は出動し、民衆を追い払おうとしました。
ですがこのとき、警官は民間人を傷つけてしまったのです。
警官たちの上司は原敬、つまり民間人を間接的に傷つけたのは、原敬。
反立憲政友会の議員・新聞各社は、原を猛烈に攻撃しはじめていました。
山県は、立憲政友会の暴走を危惧し、原を抑えられる人物として、大隈重信を首相に推したのでした。
原はここから数年ほど苦境の日々を過ごしましたが、この小説は尾崎行雄がメインですので、原のことは一旦置いておきましょう。
大隈は晴れて二度目の首相となりました。
大隈は自らが好いている人物を閣僚に選びました。
尾崎行雄、犬養毅も、閣僚にどうかと誘いました。
あの日の尾崎は、誘いをすぐさま引き受けました。
その足で、尾崎は犬養のお屋敷へと突撃しました。
すぱん、とふすまを開けて、尾崎はウキウキ気分で叫びます。
「犬養さん!!!! 大隈さんが首相になったんですって!!!!」
犬養は茶を一口飲み、せんべいをかじり、羊羹を食べて、茶を飲みました。
「やれやれ。挨拶もなしに来たくせに、喧しいなあ」
「犬養さん!!!!! いざ、二人で閣僚になって、大隈内閣を乗っ取ってしまいましょうよ!!!!」
どこから突っ込めばよいのでしょうか……?
恩師の大隈が組閣した内閣を、さらっと野取る計画を立てていることでしょうか。
それとも、犬養に散々迷惑をかけているくせに、二人で仲良く仕事ができると信じ切っていることでしょうか。
尾崎の純粋無垢な思想回路には慣れっこな犬養は、怒らず動じず、普通に返事をします。
「確かに大隈さんには誘われたが、断ったぞ」
「ええ! どうしてですか?」
「よくよく閣僚の顔ぶれをみてみろ。外務大臣に誰が座っている?」
「外務大臣……。えっと、確か、加藤高明?」
「そうだ」
「あれれ、犬養さんって、加藤高明のこと嫌いなんですっけ? あ、そっか。そういえば加藤って、桂太郎が作った新党に加入していましたね」
「そうそう。君にやられて命を散らした、桂太郎の新党だ」
尾崎は微妙そうな表情を浮かべました。
「……いや、私のせいではないと、思いますが……」
「あっはっは。冗談冗談。本気にするな」
桂太郎は内閣を総辞職した後、病気を患ってこの世を去りました。
直近の政治では、尾崎は桂と戦っていました。
けれど、尾崎が東京市長だったときは、日露戦争の勝利のため、桂と協力していました。
ですので、尾崎は桂の死を残念に思っていました。
ただ、政界には、とある噂が流れていました。
いわく、桂が死んだ原因は心労だと。
尾崎行雄の演説によって、はかなく命を散らしたのだと。
尾崎は複雑な気持ちでした。
確かに、尾崎は桂の非を明らかにしようと、演説をしました。
ですが、命をとるつもりなんて毛頭ありませんでした。
……日本には、『言魂』という熟語が存在します。
口から息を吸い、思いの丈を伝える、ただそれだけで、人の心を揺るがします。
時には、……死をも招く。
「……」
犬養は話を変えました。
「で、桂がお亡くなりになったので、あの人が作った政党は加藤高明に乗っ取られたわけだな」
加藤高明は、外務省の役人出の政治家です。
その能力は卓越しており、日清戦争にて下関条約を締結させた陸奥宗光も可愛がっていたほどです。
ここまでなら、ただ普通に将来有望な政治家ですが、彼はそこんじょそこらの優秀な政治家とは少し違います。
加藤は、我が国が誇る東京大学の法学部を首席で卒業しました。
誰もがそのまま官僚への道を進むと期待していましたが、なんと加藤高明、就職先は三菱だったのです。
商業のイロハを脳内に叩き込み、加藤は三菱の副支配人にまで上り詰めました。
三菱時代の一番の功績は、三菱創業者の娘を妻にもらったことでしょう。
巨万の富を得る立場を確立した後、加藤は満を持して官僚の道を歩きだしました。
読者の皆様はご存知かもしれませんが、三菱のバックにいたのは大隈重信でした。
ですので加藤は大隈と親しく、その流れで犬養も彼と接点がありました。
何度か言葉をかわした結果、犬養は加藤に対して、こう思いました。
こいつ、気に食わない、と。
「大隈さんは加藤をかわいがっているからな。どうせあの男のやることなすこと肯定するに違いない。つまり、大隈内閣は事実上加藤高明内閣だ。俺はあいつの下で働きたくはないからな。閣僚を断った」
「えー……」
尾崎はひどく残念そうでした。
ですが、犬養さんがこうまで言い切ってしまったら、もう仕方ありません。
「分かりました……。ですけどっ! 気が変わったら、ぜひぜひ! 入閣してくださいね」
「そうだなあ。日本の首都が岡山にでもなったら、入閣してもいい」
尾崎も尾崎で大隈派の人間でしたので、加藤とはそれなりに面識がありました。
ですけど、犬養ほどの拒否感はありませんでした。
尾崎は残念だな、と思うだけで、加藤への警戒心なんて全く持っていませんでした。
それが間違いだったと気づいたのは、司法大臣として入閣して数日たってからでした。
びっっっっっっっっくりするほど、自分の意見が通らないのです。
普段の国政はまだしも、司法省の仕事でさえも文句を言われます。
閣僚のいずれかが汚職に手を出したので、政界引退と引き換えに情状酌量してあげる案を考えました。
これは他の閣僚たちも拍手喝采してくれるだろうとウキウキしていたのに、加藤はまず罪に問うこと事態が間違いだとグチャグチャ言ってきました。
その間、大隈は黙ったまま。
たまに口を開けば、どちらかというと加藤に同情的な意見を述べるのです。
だんだんと、尾崎は犬養の忠告を理解しつつありました。
そして。
尾崎にとって、一番の災難が、訪れようとしていました。
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