第3話 北条の謀 同年同月23日

 今川義元は駿府にて挙兵した。目指すは河東、富士川より東を奪還することが狙いだ。


寿桂尼「雪斎殿、此度の戦必ず勝つのですよ」


雪斎「はっ…かしこまりました」


今川義元「…さっさと行くぞ!はよう帰って龍王丸に蹴鞠を教えねばならぬ。雪斎、お主も詩歌を教える準備をせい!」


雪斎「御屋形様…これから戦というに、呑気な方だ」


義元「はは、しかしな、既に扇谷上杉が江戸城に大軍で迫っておることは聞いておる。北条も駿河より追い出されるは避けられぬと踏んでおろうて」


雪斎「たしかに、左様にございますな。では、駿河再統一と参りましょうぞ」



 今川軍は駿府を発ち、家臣達と合流しながら東へ向かった。都合1万5000の大軍である。

 前年には北条方の葛山氏元が寝返っている。もはや北条を駿河から駆逐するのは時間の問題であった。



 暫し進軍し富士川を渡河していた頃、先に渡河した雪斎の元に北条の使者を名乗る者が訪ねてきた。


雪斎「北条の使者とは…。我々の動きを掴んでいたのですね。通して下さい──あ、貴方は…」


北条幻庵「久方ぶりですね、九英殿…いや、太原崇孚たいげんそうふと名を変えられたのでしたね」


雪斎「げ、幻庵殿、一体いかなる仕儀にて…」


幻庵「ただの僧侶一人、誰も警戒などせぬでしょう。

…話の内容は簡単です、これまで甲斐武田家や室町将軍の使者などより和睦を望まれてきましたから、それを呑もうという話です」


雪斎「しかし、北条相模守様が許しますまい」


幻庵「それが、許可したのですよ…。今川家に駿河を明け渡す代わりに、それ以上の侵攻を止めるように、とね。ついでに水軍も下げて頂きたい」


雪斎「…条件はわかりました。今川軍の渡河が終わり次第協議することとしましょう。ただ、何故駿河を明け渡すとまで?」


幻庵「そうすれば今川家と戦をせずに済むからです。今川家も今すぐに三河の侵攻、統治に力を入れたいところでしょう。富士川から駿府では国境が近すぎますからね、多少の譲歩は必要でしょうが…扇谷上杉と挟撃されるより、ずっと建設的です」


雪斎「なるほど…確かに今川としては駿河さえ返して貰えれば文句はありません。お互いに多少の警戒はあっても直接の戦は避けられる…そういうことですね?」


幻庵「その通りです。欲を言えば扇谷上杉との盟約を破棄して頂きたいところですが、過ぎた願いというもの。お互いこの辺りで手打ちとしましょう」


今川義元「雪斎、何事か。…おや、貴殿は何者かな」


幻庵「幻庵宗哲、北条氏康の叔父です。北条の使者として参りました」


義元「…!!そ、そうだったのか…。しかし、今川の大将は儂だぞ?使者ならば、なにゆえ雪斎の陣に…」


雪斎「渡河し終わった部隊に私が居たからでしょう。何度か直接顔を合わせたことがありますから」


 雪斎と幻庵は今川義元に和睦の提案の話をした。駿河湾は日に照らされ、潮風を届けている。


義元「つまり、戦をしたくないのだな?儂とて北条を虐めたい訳ではない、駿河守護として駿河全土を治めることが出来るならば問題はなかろう」


幻庵「はっ…ありがとうございます」


義元「但し……但し、条件がある。富士郡、駿東郡の譲渡に加え、蓼原の先、長浜城まで頂く。

それに加え暫し人質を頂く。氏康には子がおろう、誰でも良い故二月ふたつき程…長くても今年中にはお返ししよう。興国寺城にて預からせて頂く」


幻庵「条件、しかと聞き届けました。小田原にて評定したのち、武田家に仲介してもらい正式に和睦することと致しましょう。

和睦が正式に成るまで、伊豆に入らぬよう頼みます、長浜城に勝手に入られては困ります。駿河にある北条の城は3日以内に退去させますから、それまでお待ち頂きます。よろしいですか?」


義元「…どう思う雪斎?」


雪斎「良いでしょう。但し、和睦の誘いで時間を稼ぎ北条に駿河防衛の準備を整えられても困る故、軍はこのまま進め、大石寺付近に布陣させて貰います。不審な動きをなされぬよう、注意して頂きましょう」


幻庵「では、こちらも追加の条件を。この陣を離れて動くのは明日までお待ちください。それと──

はい、この北条の旗印を軍の先頭と最後尾に持たせてください。これを和睦の意思ありと見做させて貰います。これで以上です」


義元「うむ、よかろう。では、正式な和睦を待っている」


雪斎「早速、水軍に駿府に戻るよう命じましょう。北条の水軍も江戸湾に向かわせたいでしょうからね」


幻庵「はい、交渉に付き合って頂きありがとうございました。では私はこれで」


義元「あいや、護衛をつけられよ。北条が相対する家とはいえ、流石にお一人で帰す訳には参らん」


幻庵「ご配慮、痛み入ります。では今川様、雪斎殿、また和睦の場でお会いしましょう」


 幻庵は護衛を連れ、駿東郡の長久保城に戻っていった。離れたところを確認し、義元が尋ねる。


義元「のう雪斎、扇谷上杉はどう出るであろうか」


雪斎「水軍はともかく、伊豆の軍勢と当主氏康は足止め出来ておりましょう。それに北条と戦う手前、今川家を敵に回すほど愚か者でないのは存じております。

ただ、妙ですね…。北条の動きが早すぎます。やはりこちらの動きを読んでいたのでしょうか」


義元「…もしそうなら厄介よな、扇谷上杉相手にも策があるのかもしれぬ。

ともあれ、今川に有利な条件で和議が成せるなら取り敢えずは問題無いな」


雪斎「…人質を期限付きで返還するのは遺恨を残さない為ですよね。よく思いつきましたね」


義元「我らの真の狙いは東海道…そして東海道で最も豊かな尾張が狙い、関東なんかの戦に付き合ってられぬ。少なくとも北条が強いうちはまともに戦う意味は無い、甲斐の武田も同様よ…。

しかし、扇谷上杉に恨まれては困る、書状でも書くか」


雪斎「それがよろしいかと」




 扇谷上杉の書状はすぐに送られた。…まだ太陽は東にある。あまりにも早い進軍の停止であった。

 今川家は血を流さずに駿河を手に入れる為和睦の準備に専念し──それに対する北条家は、警戒の兵以外は自由に動かせるようになった。


───────────────────────


 上野国、平井城にいる上杉憲政は扇谷上杉家が江戸城包囲に動いたことを確認し、傘下の諸将に号令をかける。


上杉憲政「…もう来たのか長野!…早すぎないか!?」


長野業正「他の諸将が遅いのです、この上野で最も偉いのは上杉憲政様ただ一人、すぐに駆けつけるのは武士の務めに御座いましょう」


上泉信綱「諸将に密かに兵を集めさせ、いつでも出陣出来るよう要請はしておりましたからな、おかしなことではないかと。飢饉の前の出兵よりも多くの兵が集まるかと」


憲政「ああ、そんな肝の冷える話はよい、これからのことを考えよう。

まずどの程度の兵が集まる?」


長野「さて…横瀬やら武蔵の家臣共やらはわかりませぬが、上野だけで1万近くは集まるやもしれませぬな」


憲政「…では、北条の申す通りまず松山城、次いで河越城を狙うとするか」


上泉「岩槻城は狙わぬので?」


憲政「岩槻城を落とし葛西城を狙い江戸湾に届くより河越城を落とす方が扇谷にとって痛手、我らにとっても良いことよ。北条なんぞは信用ならんが兵を引き付けてくれるなら儲け物、利用してくれよう」


長野「では松山城に向かうとしましょうや、反対するものもおらぬでしょう」


 山内上杉の狙いは定まり、戦に乗りだそうとしていた。数多の諸将を集め、河越城を目指している。


───────────────────────


「は?…ハァ!?」


 志村城に詰め、江戸城包囲を進めさせていた上杉朝定に衝撃的な報せが届いた。今川からの文には、これから北条と今川の和睦を進めていくと書いてある。


足利義勝「何があったのだ?」


「これを見よ!…今川義元め、己の目標だけ達成すれば良いとは……舐められたものだな!」


太田資正「御屋形様、これは…つまり、北条は我ら扇谷上杉へ兵力を集中出来るということですな」


義勝「そのようだな…。

しかし吾らも大軍、和睦も未だ済んでいないのであらば全力は出せまい。それに氏康めは和睦の為こちらには来れまい」


「…北条はこちらの動きを読んでいた、今川からの文が偽物で無い限りそう考えられるだろう。

他の伝令も今川の水軍が踵を返し駿府へ戻ったと伝えている。間違いない、北条は扇谷上杉と一戦交えるつもりだろう。

ここまで読まれているなら何か手を打って来る筈だ。大将抜きで謀もなく無策で突っ込んで来ることは無い。氏康の策を元に、綱成等が攻めて来るだろうな。

…難波田の陣より手の空いた将を連れて来てくれ」


小姓「はっ」


太田「…しからば、いかに攻めて来ると?」


義勝「今江戸城が攻められているというに、無視は出来まい。素直に決戦するのでは無いか?」


伝令「御屋形様、山内上杉が全軍を本拠平井城に集結させているとの由、傘下国衆や家臣らが大急ぎで駆けつけておるようです」


「…!!山内上杉か!なるほど…我らが挟撃をしているようで挟撃されるという訳だな」


義勝「しかし、まだこちらを攻めるかは分からぬではないか」


「…いや、平井城には上杉憲政がいる。山内が攻めるならば武蔵、信濃、越後しかない。信濃ならば長野らに任せるであろうし、越後ならば慌てて攻めはせぬ。もし西武蔵の北条方を攻めるならば山内家臣の成田等が太田らに書状を書くはず。

連中、松山城か岩槻城を攻めるつもりだろう」


義勝「では、今すぐに向かわねば!」


太田「左様、松山も岩槻も落とされる訳には参りませぬ!!」


「無論、山内は追い払わねばならぬ、しかし…北条の相手をしつつ山内を相手どるには…兵が足らぬ!」


難波田憲重「包囲で忙しいときにお呼びとは、何事でありましょうや」


「要約すると今川は和睦の準備に入った。山内が挙兵の準備をしておる、山内と北条が組んで我らを挟撃する腹つもりだろう」


難波田「……な、なんと」


「いかがしたものか…」


 …割と不味い状況になった。山内上杉の兵力がいかばかりか分からぬが、1万は下らないはずだ。松山城か岩槻城の後詰に1万…いや、8000を割けば防げるとしても…今度は北条を防げない。江戸城陥落どころか東武蔵を北条に奪われかねない。


「…萩野谷、火縄銃は幾つ持ってきた?」


萩野谷「へい、新旧合わせて28でい」


 想定より多いが圧倒的に足りない。…そもそも火縄銃だけでどうにかなるものでもない。


義勝「今から江戸城を力攻めし、江戸城に籠って北条を防ぎつつ残りの軍勢で山内上杉を追い払うのはどうじゃ?」


「北条軍が到着するか山内上杉軍が城を落とすまでに江戸城を落とし、北条の攻囲に耐えられるようにすると?…無茶だ。それが出来れば城などいらぬ、無理に攻めて痛い目をみるのがオチだ」


難波田「残りの下総の兵と真里谷武田、土岐の軍勢を加えれば如何か?」


「うーむ…。里見がいなければそれも適うが…いや、常陸や下野の大名まで決起して攻めて来るやもしれぬ、押さえは外せぬ」


「「……」」


 あー、完全に詰まった。が無い。

 敵の侵攻を無視すれば扇谷上杉の名声が地に落ち、寝返りが頻発するだろう。山内上杉を防ぐにも北条を防ぐにもある程度は兵が欲しい。

 しかし、兵が足りない。これなら3万は欲しい。江戸城を落とすなら4万は必要だろう。…あまりにも足りない。こちらは2万と少しだ。


小姓「御屋形様、大変で御座います!!」


「…なんだ、そんなに慌てて。まさか、北条が攻めて来たか?それとも寝返りか?」


小姓「そ、それが…武田の旗が…」


「た、けだ?真里谷が救援にでも来たのか?」


番兵「御屋形様、御目通りを願う者が…」


「何処の武田の者か?通せ」



???「…お初にお目にかかります」


義勝「…武田菱だな、紛うことなく。吾は足利相模守義勝である。何者か?」


武田信繁「甲斐国主、武田晴信が弟、武田左馬助信繁と申します。左馬助ゆえ、典厩てんきゅうと呼ばれておりまする」


 …皆、驚き過ぎて言葉も出ない。武田家臣ですらなく一門を送るとは…呆然とする他ない。


信繁「まあ、驚かれるのも当然でしょう。ここに来るとは思いませんよね。

北条も今川と上杉を警戒するあまり小田原城周辺以外は警備がザルでしたよ。我々は隊を細かく分け八王子方面から堂々と多摩川を渡って参りました、後で兵共も500ほど集まるでしょう」


「あ、えー、左様か…。私は扇谷上杉家当主、上杉朝定と申す。

コホン、此度は何用で?」


信繁「北条の企みを見抜いた為、兄の名代として参ったのです。

山内上杉が扇谷上杉を攻めるのはもうご存知ですかな」


義勝「…先程、察知して策を練っていたところだ」


信繁「では、話は早い。山内を破りに行きましょう」


「しかし、山内に兵を割くと北条が防げぬのでは?」


信繁「いいえ、どうにか防げます。江戸城を包囲されているのですよね?

こちらの兵力と江戸城の兵力は?」


難波田「我らは水軍を含め2万2000、江戸城にはおよそ5000ほど」


信繁「で、あれば…ここと江戸城の北に城があります、兵を2、3000詰めれば補給は許してしまいますが押さえには足りるでしょう。

北条の本軍は私が予測するに2万前後、水軍と共に攻めてくるとすればこちらは後詰に1万2000以上は欲しいですね、合わせて1万7、8000ですか…。

では、山内は5、6000で破るとしましょう。」


「…悪くない手だな。山内と5、6000ほどの兵で戦えるならばの話だが」


信繁「……山内は元は武田の盟友でしたが、もはや武田の敵となるのは見えています。ここで私と共に、山内上杉を潰して頂きたいのです」


「しかし、それは戦に勝つ理由ではない。いかにして勝つのか?」


信繁「それはまず北武蔵に急行してから、考えましょう。…まだ山内がどの城を狙っているか分からぬでしょう?戦術など決められません」


 なるほど…流石武田の副将、歴史に残る賢人だ。戦争という不確定要素の塊に挑むのに、確実に勝てる状況のみを求めても始まらない。まずは動いてみることが大事ってわけか。


「典厩殿の申されること、相わかった」


難波田「…御屋形様、良いのですか?」


「わざわざ甲斐より来られたのだ、呑気に悩んでいる場合ではない。巧遅拙速、山内が動く前に動くぞ。

北武蔵方面の軍と江戸周辺に残る軍の二手に分ける。

北武蔵に向かうは私と太田隊、萩野谷隊、それに典厩殿だ。

配置は…石浜城に上田隊と水軍、志村城に渋川隊、残りは纏めて蕨城にて後詰とする。建設途中の砦と品川湊は一旦放棄する。大将は…」


義勝「吾に任せるがよい、北条など追い払ってくれる」


「…くれぐれも無理はせぬように。本隊を二分し、兵2000を預け、私が4000を率いることと致す。これで山内に6500で戦える。

皆々、異論はあるか?──無いようだな、では各々、支度をせよ!!」


 一斉に動き出す。本隊に号令をかけ、太田資正隊も集結させる。萩野谷隊はもともと本隊と共に行動している。


 武田の兵も集まり、出発の準備が整っていく。


信繁「…上杉様は決断力がおありですなぁ。兵の練度も悪くはない、北条と渡り合うだけありますな」


「はは、お世辞は要らぬよ典厩殿、しかし…かように危うい動きをされるとは」


信繁「…武田は危うい道も歩まねば大きくなれぬのです。いずれ山内を潰さねばならぬのならば、今のうちに扇谷上杉家の力を借り山内の勢力を削がねばならぬということです。

それに、上杉様のことが気になっておりました。

戦略や謀略に長け、親族も無しに弱冠13で北条ほどの大名を手玉にとる者など、そうはおりませんから…学びを得て、武田の将来に活かしたいと。

武田も大きくならねば、いずれ潰されますからね」


「…、かな?」


信繁「…!やはり、分かりますか」


「海が無いというのは、水運が使えぬということ。塩も手に入らず、甲斐の明確な欠点だ。その上風土病もある、武田殿もさぞ苦労なされているだろうな…」


太田「御屋形様、準備は整い申した!」


「よし!……では、北へ向かう!!まず岩槻城に入るぞ!!」


 上杉朝定率いる上杉武田連合軍は志村城を出立した。兵数は6500、未だ策は決まっていないが早急に北に向かうのだった。

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