第15話 分国法 天文10(1541)年8月12日
飢饉が始まってから一年以上、利根川流域以外の地域では被害は最小限に抑えられていた。舟も徐々に作り直し、水軍の強化の為更に増産して訓練を続けている。揺れる船上で弓を当てるのは難しそうだが、今後北条や里見と対峙するなら強い水軍は必須だ。
河越城本丸大広間にて、扇谷上杉傘下の武将達が一堂に会している。もちろん会議をするためだ。軍議では無いため、足利義勝は呼んでいない。あくまで扇谷上杉での話し合いだ。
…家督を父上杉朝興から相続したばかりの頃と比べかなり増えた気がする。これからより一層家中の統制も気を配らねば。
「皆、よく集まってくれた。家中もここまで大きくなったと考えると感慨深いな。
…ときに、此度集まってもらった理由が分かるものは居るか?」
太田資顕「一昨日北条氏綱が死んだと聞き及び申した、それ故に御座いましょう」
そうなのだ。北条氏綱が死んだ。既に家督を氏康に譲ったとはいえ、間違いなく北条の弱体化だ。
「うむ、それもある」
難波田憲重「それ以外となると…先々月に甲斐の武田左京大夫信虎殿が嫡男武田大膳大夫晴信殿に駿河に追放されたことですかな」
「まあ、それも大事ではあるがな…」
武田信虎が追放されたのは中央集権体制を進めようとして板垣、甘利ら重臣の反発を招いたことと、飢饉の影響だろう。ここ関東は問題無かったが去年台風が甲信や東海に被害を及ぼしたのも一因だろうか。
ともあれ、
「他に考えがあるものは?」
萩野谷全隆「…御屋形様が昨年から思案しておったやつでさぁ」
「あっこら、バラすな」
萩野谷「…こりゃ失敬」
難波田広儀「江戸城攻めに参るのでは?江戸城奪還は扇谷上杉の悲願、全軍をもって攻め落とすのではと」
「簡単に江戸城が落ちるならそれでも良いがな…我らに大きな被害が無いとはいえ、城攻めのようなことは避けたいのぉ」
高城胤吉「では、下総攻めとか?」
臼井景胤「千葉の残党狩りを命じてくださると嬉しいのですがな、…関係無さそうですな」
「利根川流域の復興が終えたら考えよう。今はまだ早かろう」
上田朝直「…御屋形様、そろそろ教えて頂けませぬか?」
「ふふ、では発表するとしよう。アレを持って来てくれ」
小姓「ははっ」
小姓がすぐに脇から巻物を持ってくる。それを手に取り、封を解いて広間に広げる。
上田「これは…」
「これは、私が家中と領内に敷く法度だ。今川殿より『今川仮名目録』を参考にさせて貰って作った。…『扇谷上杉法度集』とでも呼ぼうか。」
いわゆる、分国法と呼ばれるものだ。戦国大名が室町幕府から独立して、法律を施行するもの…なのだが、『御成敗式目』が優秀だったためにその追加法に近しいものが多い。カタチを変えて明治時代まで残る部分もある、優れた法律だ。真似しない手は無い。
…そう考えると1から御成敗式目を編み出した鎌倉幕府はすごいな。
「…これを家臣や領民に浸透させたい。もし変えて欲しい条項があればいつでも申し出てくれ、対応しよう」
この扇谷上杉法度集のおおよその内容は扇谷上杉家の支配が室町幕府に優越することを始めとして、土地や年貢の取り決め、各種犯罪の罰則、隠田や賭博の禁止等の領内全体に関することから、家臣らの婚姻や同盟の制限や他国との連絡規制、当主に人質を差し出すことや相続について等の武士向けの条項もあり、座の私的な市への徴収や関所の禁止に
少々先取りしているが、室町時代にそぐわないレベルでは無いはずだ。後は浸透させるだけ…。
難波田憲重「これは、また…とんでもないものを考え出されましたな」
三戸義宣「…この、当主への人質というのは、一族の者をここ河越に住まわせるという意味で?」
「その通り、見て分かるように家臣は増えておる故、家中の結束を図る」
渋川義基「なるほど…北条の調略も警戒せねばならぬ、良い方策ではあるかと」
上田朝直「この市に対する法度と関銭の廃止は座の者共に抵抗を受けそうですな」
「そこはなんとか言うことを聞かせよ。商人を集め、税収を増やしたいのだ」
難波田憲重「一つお聞きしたい、御屋形は我ら難波田の力を削ぐ考えであろうか?」
「…どういうことだ?」
難波田憲重「…この婚姻や同盟を当主の許可制にするというのは…いかがなものかと」
「別に今までの血縁に口出しはせぬ。しかし、家臣達が集って一揆などの原因になっても困るのだ。或いは他家に寝返る要因ともなること、難波田だけの問題ではない」
太田資顕「しかし、他家との連絡の為婚姻を使う例もありまする。現に、太田家と成田家には縁組で繋がりがありまする」
「無論、私に一声かけるなり書状で伝えるなりすれば連絡しても良い、が…もし無断で外交を展開するならば──」
「──反乱を企てたとして、斬首とする」
太田資正「ふむ…よくわかりませぬが…方々、問題ないのでは?」
高城胤吉「この法度にはしかと我らや領民の声を届ける為の決まりが載っておりますれば、おおよそこの法度に則れば問題はないでしょうな。それに、御屋形様までこの法度の適用範囲内とは…」
「そうすることでこの法度をより強固なものとするのだ。主君の好き勝手に出来るならば誰も言うことは聞くまい。だが、主君が好き勝手出来ないのならば、多くの者に法度を守らせやすいだろう。
人の上に立つものは、権利を得る代わりに責任を負わねばならぬ。
…武家の家中は正しく国そのもの、当主ならば秩序を敷き、また秩序に従わねば、家中は離散し滅ぶだろう」
難波田広定「…御屋形様は扇谷上杉家の当主の為だけではなく、扇谷上杉家中全体の為にこの法度を広めたい…ということでは?」
「左様。全ては家中全体、ひいては領内全ての者の為」
萩野谷全隆「法度に文句があらば、法度に則ればいいたぁ、俺にゃ素晴らしいものに思えやすが…方々、いかがで?」
「「…」」
「…では挙手にしようか。この法度を領内に広げ、扇谷上杉家中に適用することに異論の無いものは手を挙げよ」
…暫くして、全員が手を挙げた。想像以上にうまくいったかな。
「…手を下げてよい。では、この法度を皆持ち帰り、立て看板なりで広めてくれ。少々長いが頼む」
「「はっ」」
「…これで家中はより纏まるであろう、当主として皆に礼を申すぞ」
これで私の権限が強まると思えば、土下座でも出来るというものだ。北条に対抗するのに、家中がバラバラでは困る。
「まだ周辺の領地では飢饉で苦しむことも多い。今の内に
それと、飢饉にも関わらず攻め寄せる輩がおるやもしれぬ、城の防御は常に気にしておくように。
検地もどんどん進めてくれ。纏めて私に送るように。
…以上だ、質問のあるものはいないな?…では、解散とする」
…諸将が退出していくが、難波田憲重だけ残った。何か問題でもあったか?
難波田憲重「御屋形様、一つ頼みたいことがありまする」
「…なんだ?」
難波田「次男四郎の元服にございまする」
「…ああ!そういえばもう17か!?私と同い年だったものな、すぐに偏諱をくれて元服させるとしよう」
難波田「おお、覚えておられましたか…では、折角ですから諱を決めて頂きましょう」
「んー、私の定の字を付けて…定重はもういるし、何がいいかな」
難波田「儂の初名は正直であったから、定正か定直ではいかが?」
「ふむ…では、定正にしよう。太田美濃守も正の字があるからな、丁度よい」
難波田「では、そのように致しましょう…。いずれ、長男定重の婚姻も相談致しまする」
「うむ、よろしく頼む」
難波田「はっ」
小姓「…御屋形様、千佳様がお呼びです」
「??何用か」
小姓「さぁ…?」
なんだろう、ご飯時じゃないし…。取り敢えず、奥の間に向かう。
「千佳殿、お呼びでしょうか?」
千佳「…はい」
「…そ、その…何用で?」
千佳「法度を制定するとかなんとか…」
「ああ、そのことですね…何か──あー、国王丸君への手紙は自由に送って貰って構いません。あちらからの手紙は一目通させて貰うかも知れませんが…」
千佳「いいえ、そのことではありません」
「…?」
千佳「…婚姻のことですっ!私、五郎殿に相談しないと輿入れ出来ないんですか!?」
「…ええ、そうですけど?そもそも、法度以前に一度お話を通して頂かないと…」
仮にも足利一門なのだ、勝手に大名に嫁がれたりしたら…考えただけでゾッとする、政治的に大問題だ。
千佳「えっ…?もしかして、よそに輿入れさせる気で?」
「…?そういう話でなく?」
千佳「──な、」
「な?」
千佳「なんでそうなるんですかっ!!」
急にグイッと詰め寄って来た。なんでそんな反応なんです?恥ずかしいのかな?
「わ、わぁ…えー、えっと、話が見えてこないんですけども…そもそも、まだ12でしょう?そんなこと考えなくても…」
千佳「うーん…それはそれ、です。…とにかく、よそに輿入れってどういうことか説明してください」
そんなジト目で見つめられても…。
「れ、冷静になって…。
えっと──そうだ、政略結婚は嫌ってことですか?」
千佳「…!!はい!!その通りです!!」
ま、眩しい笑顔だ…。現代の倫理観も合わせ持つ身としては無理強いはしたくない。恋愛結婚したいんだろなぁ…。
「あはは…では、こちらで候補を考えておきます。必要なら手紙や短歌のやりとり、あとはお忍びで顔を見に行くとか─」
千佳「全然違います!!」
「!?」
千佳「もう…つまり…えーっと、その…また今度にしましょう、この話」
…よくわかんないけど、落ち着いてくれたらしい。助かった。
「…まあ、まだそんなことは…考えなくてもいいんですよ。
取り敢えず飢饉が落ち着いて、領内が更に豊かになったらにしましょう。その頃には輿入れに丁度よい年頃でしょう。
他の大名にするにせよ、公家にするにせよ、余裕が出来てからです」
千佳「だから!どうしてそう…」
「ま、まあまあ、まだ12なんですから、のびのびと好きなように過ごしてはいかがですか?不満があれば可能な限り、手を打ちますよ」
千佳「今まさに不満があるんですけど…」
「…あの…何が不満なんです?」
千佳「そ、それは…内緒、です」
うーん……よく分かんないなぁ。
しかし、着々と内政は進み、扇谷上杉家にまた戦乱の時代が訪れようとしている。この束の間の平穏を、暫し感じるとしよう……。
───────────────────────
甲斐国、
同盟相手であったはずの諏訪氏が、これまた同盟相手のはずの山内上杉憲政に信濃国佐久郡を割譲してしまったのである。武田晴信が父信虎を追放し、家督を相続する事件のどさくさ紛れに、である。もちろん山内上杉も許せない。だが、その前に諏訪氏を潰さねばなるまい。そう考えていた。
武田信繁「兄上、お気持ちお察しします。然るに、信濃は諏訪に攻め入り武田の威を見せつける必要があるでしょう。……但し、飢饉の影響が収まってから、ですが」
武田晴信「うむ…それに、扇谷上杉より米を買ってはいるが、流石に糧食が足らぬ。兵が動かせぬ上、民達が飢える。だが来年から諏訪を攻めるぞ」
信繁「はっ、そのように手配させましょう。では、伊那の高遠頼継を調略し、諏訪を攻めるのが良いかと。その後、高遠頼継を滅せば…」
晴信「信濃侵攻の目処が見えてきたな…」
武田晴信は、物見櫓に登り甲府盆地を見下ろす。
晴信「見よ、次郎。
…この甲府盆地は甲斐では随一に発展しておるが、より大きくなれる器と考えておる。甲斐は豊かな土地とは言えぬが…、それ故に皆必死になって戦いに挑む。これが武田の強さよ」
信繁「ええ。それに…兄上と私がいれば、例え戦で勝てずとも謀で勝てましょう。いずれ…いずれ必ず、海を武田の手に」
晴信「うむ。もともと武田は信濃に駿河や遠江などにも勢力を伸ばしておったのだ。甲斐一国では足らぬ。それに…」
下に目を向けた。屋敷の中には、継室の三条の方とその子、太郎がいる。
晴信「儂には、守るべきものがある。そのためにはどんな手も使うと決めておる」
信繁「それこそ、武田の主でありましょうな」
晴信「…しかし、飢饉とは…どうにもならぬな」
信繁「…されば、知識を得られては?」
晴信「しかし、どんな軍学や過去の治世にも飢饉を防いだ者などそうそう…」
信繁「おるではありませぬか。武蔵の扇谷上杉が」
晴信「ふむ…確かに、儂より3つ下だと言うに、版図を広げ飢饉を防ぎ甲斐にまで米を売っておる。手本とすべきか」
信繁「ええ、他の大名より学ぶのもまた、必要な手でしょう」
晴信「お主も儂の4つ下であろうに、賢いことこの上ない。お主が儂に謀反を起こすような者ならば、甲斐武田は滅んでいたであろうな」
信繁「はは…買い被りですよ」
晴信「ふむ…お主にも室を設けたいが…おお、そういえば扇谷上杉に小弓御所の娘がいたな、丁度よいのではないか?」
信繁「やめておきましょう…。どう見ても当主上杉朝定の妻にするつもりでしょう。下手に刺激して米が貰えなくなったらどうするのですか」
晴信「むう…それもそうだな…
───儂ももっと沢山の妻が欲しい」
三条の方「──御屋形?聞こえておりますよー?」
晴信「あっ…す、すまぬ!!これは、その…違うのだ!」
三条の方「まったくもう…」
信繁「ははははっ、兄上も三条殿には頭が上がりませぬな」
晴信「むう…お主もさっさと妻を娶れぇ!!」
躑躅ヶ崎館は武田信虎の追放によって新たな体制となったが、飢饉を思わせないほど賑やかであった。彼らはこれから、武力と調略による拡張戦略を強めていくことになる。
富士山はこれより飛躍していく甲斐国を見下ろしている。──結局、飢饉であろうが戦であろうが、多くの人々は幸せに生き、理不尽に死んでいくのだ。富士山から見れば、それはいつの時代も変わらないのかもしれない。
───────────────────────
京の都、花の御所室町にて、征夷大将軍足利義晴と関白太政大臣近衛稙家は談合していた。
足利義晴「近衛殿…どうやら播磨で一悶着起きるとか。三好が細川氏綱方の国人、塩川を攻めるらしいと聞き及び申した」
近衛稙家「それは…具体的にどう問題なのでおじゃる?」
足利義晴「うむ…塩川は氏綱方の国人というだけでなく、木沢長政とも繋がりがある…。つまり、晴元と長政で戦となるでありましょう。どうなるかは分からぬが…どちらが勝っても良いように、退去の準備をお頼み申しまする」
近衛稙家「…室町殿はまた都より落ちるというのか。麻呂もついていかねばならぬこと、忘れなきように…」
足利義晴「しかし関白殿下、すぐさま都落ちとは限りますまい。まずは洛北に、そこで様子を見て近江坂本に参りましょうぞ…。
そも、どちらか一方にのみ付けば大物崩れの折のように京の都に帰れなくなるのは関白殿下も身に沁みておりましょう。暫し堪えて下され」
近衛稙家「むむ…。致し方あるまいのぉ…。
はあ〜…西国も二条らがきな臭い上、東国では昵懇の北条の方の氏綱も死んでしもうた。かようになるのであれば、もはやついてないとしか言いようがないのぉ〜」
足利義晴「…情勢目まぐるしい畿内や西国に比して、東国は未だ足利の威光は強い…。
この争乱が落ち着けば、我らの打つ手も見えて来ましょうぞ。…尤も、動座が長引くようでは困る故、木沢派の国人らや河内と紀伊の畠山に呼びかけておきまする。関白殿下の力もお借りしまする」
近衛稙家「無論でおじゃる。藤氏長者たる近衛が自らの意思で都より下るならともかく、そうそう都落ちを強いられるなどかなわんわ」
畿内の複雑怪奇な情勢は揺れ動き、細川の内乱は終わりの見えない状態になっている。しかして、将軍家の威光を義晴の子の代より完全に喪失することは…まだ誰も知らない。
人々はその数を一時的に減らしながら、再び戦の時代に臨んでゆく。戦国時代は飢饉や戦乱に見舞われながらも、中世としては勢いよく人口は増加している。平和の時代より戦乱の時代の方が人口が増加するのは、実に皮肉なものだ。
…どの大名家でも飢饉の影響を多かれ少なかれ受けていた。だが、むしろ飢饉の終わりが見え始めるるような時期でもあった。
多くの大名はそれぞれ戦に向かっている。乱世の終わりは未だ見えず、それを見通せる者は未だいない。
──例えば、未来人であったとしても。
第三章 飢饉 完
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