第三章  天文の飢饉

第1話 脈動 天文6年(1537年)9月22日

 小弓公方足利義明が国府台合戦で戦死してからおよそ2ヶ月、関東の情勢は再び蠢き始めていた。



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 小田原城 本丸大広間


北条氏綱「家中の皆々、よく集まってくれた…此度集まって貰った理由に心当たりがある者もおろうが、儂ではなく…氏康、さ、申せ」


北条氏康「はっ…実は、ややこが生まれ申した。長男故、我らが北条をいずれ継ぐ者として育てていくこととなる。名を、西堂丸とする。皆々、これよりもよろしくお頼み申す」


氏綱「…儂にもついに孫が…感慨深いのぉ…」


綱成「がはは!!!俺の子に続いて氏康にも子が出来るとは、北条は安泰だな!!」


氏綱「そうじゃ、北条は安泰──故に!儂は氏康に家督を譲り、隠居いたす!!」


 さしもの北条家中も、動揺に包まれる。関東一の巨星が隠居するという大事、呆気に取られる者は多かった。


北条綱高「…氏康殿が当主になられることに微塵も異存は御座らぬ…が、義父上が隠居とは、いかな仕儀にて?」


氏綱「うむ、早めに家督を継いでおけばいざこざも起きにくい。見よ、扇谷上杉の小倅を。幼いというに家督問題も起きず、それどころか氏康、綱成から河越城を守りきり儂らの手柄となる筈の領地を奪いおった…。北条は扇谷上杉を倒さねば周辺大名にいずれ潰される。潰される前に潰さねばならぬは、わかっておるな?」


綱成「義父上が仰ることだ、間違いはなかろう。して、扇谷上杉はいかに潰すと?」


氏康「もう決めておる。上杉朝定の力量は未だ計り知れぬが、それ故に時間をかけて力を奪う。綱成、まず何をすると思う?」


綱成「…河越城を落とす!!」


氏康「全く見当外れでもないが、それでは駄目だ。読まれやすく、河越城は落としにくい。」


綱成「では…落とされたという関戸城を奪う!!」


氏康「左様!!…ようわかったな」


綱成「知ってるぜ!!たしか、威信を落とさぬ様城を落とされたら奪還した方がいいとかなんとか──」


氏康「確かにそれもあるが、狙いはそこではない。多摩川から先は、一旦捨て置く」


綱成「なっ、当主になったのにわざわざ慎重に行くのか!?」


氏康「それは違うな、大軍での殲滅は最後の一押し、必要のない戦は武蔵を奪う上で欠点しかもたらさない…つまり、謀略をもって扇谷上杉の力を削ぐ。」


綱成「よくわからんが、搦手で攻めるのだな。で、その謀略ってのは…」


氏康「言うわけないだろう、間諜がおらずともお主のような者から情報が漏れるのは避けたい。幻庵叔父上抜きでも謀略を成功させられることを証明し、当主の地位を認めてもらおう…」


氏綱「以上よ…安心せい、儂が必要となればすぐ出張るわ…」


 北条家は蠢き、脈動を始めた。その複雑な動きは何をもたらすのか、未だ誰も知らない。



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 上杉朝定は、検地を試しつつ二毛作を広げるよう命じていた。つまり、米を育て、収穫次第…田畑から水を抜き、麦を植え、秋から冬にかけ育てる。武蔵は大麦を育てるのに適していた。稲穂の収穫を終えた農民らに貨幣と大麦を渡し、大麦を植えさせる。

 この時代の大麦は、ヨーロッパから二条大麦は届いておらず、六条大麦しかない。そう、麦茶でよく見るアレだ。中世では麦茶は麦湯というが。

 二毛作の狙いは年貢の増加──ではなく、収量増加とそれによる穀物貯蔵量の増加だ。飢饉に備えるなら早いほうがいい。


 もちろんそれだけではない。氾濫が起きそうな河畔には土嚢を積ませ、堤防としている。基礎さえできればいい、この時代の技術で完全に防ごうとすれば金も時間も馬鹿にならない。可能な限り被害を減らす方向で考える。


 地形の測量や村ごとの避難経路の策定、高台への避難小屋の設置、土砂崩れの起きそうな場所の調査、洪水で流されにくい場所への穀物庫の移転を同時並行で行っている。お陰で忙しいことこの上ない。


 検地は大事なことではあるが、まだ行政能力が成長しておらず、官僚制もないためあくまでノウハウの蓄積のため、参考程度に進めている。


 そして──放水路を計画している。尤も、現代の首都圏地下放水路並みの規模はどうあがいても不可能だ。だが、放水路をどのように通せば被害が減るか…五里霧中だが模索中だ。

 或いは、遊水地のように洪水時にあえて堤防の先に低い土地を確保して水を逃がし、下流の被害を軽減するという方法もある。但し、下流は北条が有している上、そもそも芦原が多く水害に強いというか被害が出にくい。上田朝直の葛西城周辺を中心に対策するくらいか。

 であれば、船着場や荷揚げ場に集まる舟を水害から守る方法の方が大事か…考えることが多いな。


 行政能力や技術力の足りない時代は、きついな…。



 下総西部の統治は概ね上手く行っているようだ。

 太田資顕は古河公方や千葉氏、北条幻庵を睨みつつ新しい城をよく統治している。ただ、一人で3つの城は厳しいようなので旗本衆など送って運営している。やはり、太田資正と和解してほしいな。

 渋川義基は太日川や江戸湾を利用して利益を作り出し始めた。まだ儲けは少ないが、利益は扇谷上杉との折半なので頑張って貰いたい。有事の際には太田資顕の後詰を任せている。比較的大きな城2つを与えられ、やる気に漲っているらしい、そのまま大いに役立ってほしい。

 三戸義宣は臼井をよく支えている。この分なら幻庵でもすぐには攻められまい。港も整備し、江戸湾の水運が活発化し始めた。いつか水軍も欲しいが、養成には時間がかかる、辛抱強く待つとするか…。


 武蔵と同様に二毛作も行って貰ってはいるが、武蔵ほど麦の生育に向いていないと村の長老らが言うことも多い。もしそのようなら何か別の方策を組み立てたいな…。






 そんなこんなで、あらゆる内政で大忙しだが北条が動かないのが不気味だ。何を仕掛けてくるかまだ分からない。一応伝令の高速化と手旗信号等の暗号化は進めているが、一体どう動いてくるのか…。出来れば天文の飢饉が終わるまで動かないで欲しいが、そうもいかないだろう。油断こそないが、懸念は消えない。

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