8月28日10時24分:逃亡者⑫

勝利まであと6分。勝利を確信した安堵から駅のホームに座り込んでいる、というかへたり込んでいる川瀬を尻目に、警察による聴取は順調に進む。順調すぎるくらいだ。おい待て、順調すぎないか!?

既に川瀬からの聴取を終えた警察官は、中年男と他の乗客への事情聴取を行っているのだが、手際が良すぎる!

これはまずい。もっとグダグダやってくれないと列車が発車してしまう!

「ほな、こちらの方が突然大きな声で騒ぎだして、そのあとでさらに向こうの人も騒ぎ始めたっちゅうことであってますか?なんかその、きっかけとかあります?……あ、特にない?そうですかぁ、わかりました。ご協力ありがとうございます」

「ほんなら、そのお二人だけ駅の方で詳しくお話聞かせてもらいますんで、そちらのお父さん、電車から降りてもらってもいいですかね?」

……手際が良すぎる!そうか、列車内での迷惑行為なんて意外とありふれている、それは確かに朗報だ。川瀬や中年男がわざわざ逮捕されたりしないからな。だがそれだけじゃない!ありふれすぎているんだ!少なくとも警官が惰性でサクサク捌ける程には!この関西弁の警官が大阪辺りの都市部からやってきたのなら、こいつにとってはなおのこと日常茶飯事なのかもしれない。だって都会って変な奴ばっかじゃん!

くっそ……何としてもあと6分、時間を稼がねば!せっかくここまで来たんだ!

しかして一度勝利を確信して完全に脱力してしまった川瀬にとっては、両足に再び立ち上がる力を充填することとて簡単ではない。そもそも警察相手に本格的に暴れてしまうと今度こそ逮捕され──

「ぜんッぜん違うわい!」

突如として、ここまでトーンダウンしていたかに見えた中年男の叫びが土佐昭和駅に響いた。

「俺は普通にそこの席に座ってたんだ!そしたらあそこで座ってる男が急に因縁つけてきたんだろうが!」

驚いた。真実が一つもない!

「は、はあ?あんたが先にごちゃごちゃ騒ぎ始めたんだろうが!」

こ、こいつ最後に全部の罪をこっちに擦り付けようとしてきやがった!恩人だと思ってたのに!

「あーもう落ち着いてください、詳しい話は降りてもらってから聞きますんで」

警官が割って入る。

「こんだけ事実と違うこと言われて黙ってられるかよ!ちゃんと調べろバカ!どう考えてもあいつが最初に喚き始めたんだろうが!」

「いやだからあんたが……」

「他のお客さんもお父さんが最初に騒いでた言うてはりますんでね、とりあえず一回降りてもろて」

「その情報自体おかしいだろうが!ちゃんと調べたのか?その辺の客の中だと一人からしか聞いてないんだろ?そいつが適当言っただけかもしれん!職務怠慢だ!」

列車の外にいる川瀬にも聞こえるクソデカため息は、警官のものだろう。

「……ほな、そこのお姉さん、電車内で何がどういう順で起きたか教えてもらえますか?覚えてる範囲でいいんで」

はっとして川瀬は中年男へ目を向ける。ただ憮然とした表情を見せているだけに見えるが、川瀬には分かった。コイツ、まだまだ時間を稼ぐ気だ!さすがだぜ!俺だけはアンタのことを信じてやしたぜ!師匠と呼ばせてくれ!

「もう何分遅延してる?」

「さすがに勘弁してくれよ……せっかく釣った魚が腐っちまう」

周囲の乗客はもはやいら立ちを隠さなくなってきている。悪いね。でもあなたたちもテロに巻き込まれて死にたくないでしょう?

警官の聞き取りに割り込んで「違うそうじゃない!ドアを蹴ったのはあいつ!」と中年男が叫ぶやいなや、

「いい加減にしてください!あなたも蹴ってたでしょう」

「そうじゃ!そこの嬢ちゃんの言ってることが正しいぞ!」

「だいたいあんたのせいでこっちはどれだけ待たされてると思ってるんだ!」

さっきまで大人しく椅子に座って様子をうかがっていた日和見型の乗客までもが遠慮なくヤジを飛ばすようになっていた。さすがに我慢の限界と見える。

「あーもうみなさん落ち着いてくださいね~いっぺんに喋らんといて!」

いいぞいいぞ。混乱すればするほどこちらとしてはありがたい。

勝利まであと5分!

「あのー……」

声の主は件の幸せそうなガキンチョである。そういえばこいつさっき──

「えっと、実は俺、車内の様子を動画で撮ってて……」

この、こんのクソガキッ!

「おお、でかしたで少年!さすがはデジタルネイティブや!」

動画はまずい、動かぬ証拠が過ぎる!それを確認されたらもはや我々の異議の効力はなくなる!問答無用で電車からしょっ引かれる!

「なんだこら!お前の出る幕じゃねえんだよォ!」

師匠の決死の叫びも空しく、クソガキのスマホは既に警察官の手の中に納まった。ばっちり記録されていたらしい。端末から小さく自分と中年男の罵声が聞こえてくる。先刻の自分の奇行をこうして改めて第三者的視点から見てみると、あまりの恥ずかしさに顔から火が出そうだ。

「うーんやっぱほとんど皆さんに伺った話と一致してますね。ご協力ありがとうな、少年」

にこやかに少年と話していた警官がこちらを振り返るやいなや、笑顔が消える。

「ほんなら、今度こそ駅の方でお二人から話を聞きましょうね。ほら、さっさと降りんかい!」

残り数分を稼ごうと中年男、いや師匠が必死の抵抗を試みるが、屈強な警官に敵うはずもなく、無情にも列車からたたき出されてしまった。

「たしゅけて~殺される~」罵詈雑言にもキレがない。

どうやらここまで奮戦した師匠もこのあたりが限界と見える。彼の生乾き臭のするTシャツの下にはカラータイマー的なものがあって、それが点滅を始めたのかもしれない。こんなめちゃくちゃな奴でも、俺とこの電車の乗客を救わんと奮闘するヒーローには他ならないのだから、カラータイマーぐらいついててももはや驚かない……驚かない?

と、とにかく!俺が諦めかけたとき、おっさんはいつだって諦めなかった。だから、俺ももう諦めない!俺はこの不潔な中年男から何を学んだ?諦めない心だ!

残り5分、時間を稼ぐ!後は任せてくれ!

「まだだ!」

師匠を除き、今この瞬間に土佐昭和駅にいるすべての人間が心底うんざりしたような顔でこちらを振り返った、ような気がした。一瞬ひるみそうになった心をなんとか抑える。

「そっその動画は途中からだ!肝心のどっちが先に騒ぎ出したのかはまだ明らかにされていない!」

警官の目が「まじかこいつ」と言っている。

「あのさあ、この動画の内容とほかのお客さんの証言の内容はしっかり一致してるわけ。だったら動画に映ってない部分でもお客さんたちの証言が正しいと判断しました、でなんか問題あるわけ?というかその証言通りに言えば先に騒ぎ出したんは兄ちゃんじゃなくてあっちのオッサンらしいで、よかったな。あんたがそこにこだわる必要ないやん」

「ちっ違う!こいつらの証言だとあいつの後に、俺が共鳴したように勝手に立ち上がって騒ぎ出したことになってるだろう!誰がそんな意味わからん行動なんかするもんか!」

「まあ確かに不自然っちゃ不自然やな。あんたらが今やっとること全部が不自然極まりないから気にならんかったけど」

「本当は違うんだ!あいつに襲われて、おれは正当防衛で立ち上がったんだ!仕方がなかったんだ」

「なるほどな。んーさっきの嬢ちゃん、今の話ほんま?」

「違います」

「違うんやって、ほなもう電車出してもらって」

「違う?どう違うって言うんだよ!説明してくださいよ!丁寧にね!」

残り4分。ありがとうおっさん、あとは俺に任せて安心して見守っていてくれ、諦めない俺を、時間を稼ぐ俺を!すべての責任をあんたに擦り付ける俺を!

「どうって……実際にあなたが自分から叫びだしたんじゃないですか。『うるせえ』って」

「ほら、見てくださいよ警官さんよ!こんな支離滅裂な証言のどこが信用できるって言うんですか」

「支離滅裂ってあんた自分がやったことだろ!」左奥に座っていた初老の男が声を上げる。

「俺がそんなことするもんか!あの男が俺の足を執拗に蹴ってくるから仕方なく立ち上がったんだろうが」

あと3分。

「見苦しいですよ。あの男性はそんなことはしてませんでした。」そう言ったのは川瀬と同年代くらいのワイシャツ姿の男だ。

「おお?お前あのおっさんの味方すんのか?証拠はあんのかよ、証拠は!」

「お互い名前も知らない乗客みんなの証言が一致してるじゃないですか」

あと2分。

「は?俺も立派な乗客だが?俺の証言は無視か?」

「そういうことじゃないでしょう。あと『立派な』乗客ではないです。明確に」

「もうどっちだっていいじゃない、早く出発してくださらない?」

「はいはいもうほな皆さん手上げてください!この兄ちゃんが自分から暴れだしたと思う人、手え上げて!」

戸惑いながらも、一人、また二人と手が上がり、ついには乗客全員の手が上がった。一般的に自己主張を不得手とすると言われている日本人としては快挙である。よほどみんな早く進みたいと願っていると見える。手を挙げていない誰かをあげつらって時間を稼ごうとしてたのに!

「おおう……あッ、ほらそこの人!その人も!ちょっと手を上げるのが遅れましたよね!?同調圧力だッ!無理もないですね。さあ聞かせてくださいよ、あなたが見た“真実”を!」

あと1分!

「え……あ、あの、ごめんなさい。手上げるのが遅れただけで、私も皆さんと同じ意見です」

「隠さなくていいんですよ、同調圧力に負けてもいいんですk……」

「ええ加減にせんかいッッッ!」声の主は、警察官だ。鍛えられた腹筋から発される声は川瀬を黙らせるに十分な迫力を有していた。

「証拠は上がっとんじゃ!何がしたいねんお前は!屁理屈ばっかこねおってからに!そんなん時間稼ぎにしかならへんねんッッ!」

「そうだ」

「ああ!?」

「時間稼ぎ。それがしたかったんだ、俺は」噛みしめるように、川瀬は言った。

警官が呆気にとられたようにあんぐりと口を開けてこちらを見る。無理もない、今の川瀬はこれまでの人生で見せたことのないような最高の笑顔で警官と相対しているのだから。

腕時計の針は10時30分を指していた。タイムリミット、勝利だ。

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