8月28日10時22分:逃亡者⑪

逮捕、されないのか?

川瀬は戸惑いを隠せなかった。いや即逮捕とは思ってなかったがひとまず署に連行ぐらいのことはされるんじゃないかと。

もっとブチ切れられるのではないかと。

もう明日の夕方のローカルニュースでアナウンサーに自分の実名が読み上げられるイメージまではできていた。とりあえず四国からは出ていかなければ、もしうっかり全国ニュースに載ったりネットで拡散されればもはやこの国でまともには生きていけないな、なんて、鼻の奥がツンとし始めていたのに。

それがなんだ?このあっさりした、まるでやる気の感じられない対応は?

もしかして、よくあることなのか?

よく思い返してみれば、変な奴が変なことをしていた経験など無限に存在する。ありふれた記憶過ぎて、具体的な状況がいちいち脳裏に引っかかることはないが、俺は確かに見てきた。有象無象、魑魅魍魎の、奇行を。

数時間後には思い出されることもなく、数日後には忘れ去られている、取るに足りない記憶。世界から戦争はなくなっていないし、SNSでは4か月周期で初デートでファミレスはアリかナシかの議論が盛り上がっているし、悪の秘密結社が四国の山奥でカツオエキスを用いたテロを企んでいる、このヘンテコな世界では、電車内で暴れる程度の奇行はもう奇行と呼ばれるだけのレアリティを失っているのかもしれない。

自分が悩みに悩んで、勇気を振り絞って行ったこれらの奇行は、こんなにありふれたものだったのか……!

駅のホームにペタリと座り込んだ川瀬の全身を、安心と、奇妙な脱力感が満たしている。

「ほう、ほう、あーなるほど」

警察官と乗客がこちらをチラチラと見ながら何やら話している。警察の到着を待つ間にすでに4分ほどが経過し、10時30分まで、あと8分ほど電車が遅延すれば組織の陰謀は挫かれる。さっきまで死ぬ気で稼いでいた1分1秒が、あっという間に削れていく。

中年男は、電車の中で胡坐をかきながら警察官に向けて何やら喚いていた。あの男はこれが狙いで、警察による事情聴取で時間を稼げると見越して通報したのだろう。根拠はないが、たぶんそうなんだろう。もはや中年男が自分の協力者であることに一切の疑いを持っていない自分に気付いて苦笑してしまう。

川瀬はほっと息をついた。

なんだかあっけないが、これで悲願は果たされるのだろう。よかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る