8月28日10時16分:逃亡者⑩
「近づくんじゃねえ!!」
左手の裾を掴んだ男の手を引っぺがす。だんだん川瀬たちを止めんとする連中のやり方も手荒になってきた。すでに20分近くも列車が遅れているのだから当然と言えば当然だが。
一方の川瀬は、もはや限界に近かった。あまり大立ち回りで暴力をふるって警察沙汰になっても困る。微妙な加減で調整しながら、20分間も暴れ続ければ体力も底をつき始める。
おっさんの方はというと、
「うるせえこれ以上俺に暴力するってんなら警察呼ぶぞ!!」
警察を呼ばれて困るのはこちらだというのに。先ほどまでのような、周囲をすくみ上らせるほどの覇気はなく、紡がれる言葉ももはや苦し紛れにしか聞こえない。
「暴力する」とかいうアホの動詞ひとつとってもそれは明確である。あれだけごちゃごちゃとしゃべり続けていれば、罵詈雑言の語彙を撃ち尽くしたとしても何ら不思議はない。むしろここまでよく持ったというべきだろう。
あと20分。気が遠くなるようだ。学生時代の退屈な倫理学の講義の20分、米の炊ける匂いがしてから炊飯器の米が炊き上がるまでの20分、今日この日の20分は、これまで過ごしてきた数多の20分間の中でも、最も長い20分となるだろう。
「暑いだろうが!離せや!!」
滴った汗が目に染み、シャツの裾で拭う。ごわごわとした綿の質感を感じながら顔を上げると、正面からさらに一人、新手がやってくる。さっきまでおっさんの対処に当たっていた方の乗客である。
さらに運転士までもが、まっすぐ川瀬のもとへ駆け寄ってきた。
「ああなるほど!!選択と集中ってやつですか!!」院生時代を思い出すね!
「くそったれめ!!」
どうやら一人ずつ列車から引きずり下ろす気らしい。腹立たしくも賢い作戦だ。
腹立たしいなあと思ったので「腹立たしいなァ!」と叫んでおく。
「最初は俺か!?ふざけんなよ!迷惑なのはあの野郎だろうが!あっちはいいのかよ!!」
即席・川瀬対処班の4人はは無言で川瀬を包囲し、それぞれが川瀬の四肢をがっしりとホールド。担架で運ばれる病人よろしく、川瀬を担ぎ出すつもりらしい。
フランスで路上座り込み中の環境活動家が警察に同じようなことをされているのを以前海外ニュースで見た気がする。あの時川瀬が液晶画面に向けていたであろう軽蔑の眼差しが、今は自分に向けられている。疲労によって揺らいだ意志の隙間に、捨てたはずの理性がすかさず侵食してくる。俺は、いったい、何をやってるんだ?
「うわあああい!離せや!」
大声をもって、じわじわと勢力を取り戻しつつある理性を振り払う。もう戻れないところまで来てるんだ!ここで諦めてなるものか!
「うおおおおお!」
全身全霊で体を伸ばすと、虚空を切り続けていた手のひらから冷たい金属の感触が伝わってきた。
「だああああい!」
土壇場でつかんだそれは、どうやらどこかしらに取り付けられた手すりらしい。もはや自分がどういう姿勢でいるのか、今つかんでるこの金属の柱はどこにあるものなのか、それすら分からない。気にしている余裕がない。自分を俯瞰で見る余裕がないのはむしろ幸運かもしれない。きっと恐ろしく無様な姿であろうから。
重要なのは、川瀬の体の一部がまだ電車の中に残っているというこの事実だ。
「俺は負けないぞ!お前らに!!」
腕が引っ張られて痛い。
「痛い痛い痛い!!」と叫ぶと、少し引っ張る力が緩んだ。相手はただの電車の乗客で、機動隊員じゃない。大げさに騒いで見せれば動揺する。とはいえ……
「ぐぎぎぎぎぎ…」
この状態であと10分以上も粘るのはさすがに無理がある。
「そんなのォ!わかってるぅぅぅ……」
それでもここで1秒でも長く時間を稼いでいれば、何かが変わるかもしれない。奇跡が起きるかもしれない!
あの珍妙な中年男がこうして協力?してくれていること自体奇跡みたいなものなんだ。奇跡にしては少々薄汚すぎるが!
俺が精いっぱいこいつらを引き付けていれば、中年男が何とかしてくれるかもしれない!
当の中年男は、一人で彼のお目付け役になってしまった不運な乗客相手に相変わらず何やら喚きたてているようだ。しかし、川瀬からその声は聞こえない。川瀬を引きはがそうと足を引っ張る連中が綱引きよろしく「オーエス、オーエス」とあげる掛け声と、ひそひそ話から徐々に声のボリュームが上がり始めた乗客の会話とによって中年男の魂の叫びは川瀬の耳に届かない。
川瀬の視界の端で、おっさんがポケットから何かを取り出すのが見えた。
スマホにしては小さいな…と暑さと疲れと痛みで回らない頭でぼんやりと考えていた川瀬を尻目に、中年男の手元でそれのサイズが瞬時に2倍に変化した。中央で折れ曲がった薄い金属製の板、あれは。
「ガ、ガラケーかよ!!!」
何時代に生きてるんだよ!もう令和だぞ!
いや、じゃなくて。あのガラケーでできることなんて限られている。通話か、メールか、撮影か。何をどうするつもりなんだ。
川瀬を下ろさんとする連中も疲れてきたのだろう。川瀬を引っ張る力が若干弱くなったのを感じる。少しだけ腕が楽になった。
おっさんはピピピとボタンを素早く3回押すと、意を決したようにもう一押し。待てよ、3桁の電話番号?
「あーもしもしぃ?警察の方ですかぁ!?」
単語の一つ一つを周囲に丹念に聞かせるように、おっさんがねっとりと叫んだ。
……ああ。
何を勘違いしていたんだ俺は。
この不潔な中年男が俺の意図を汲んで行動してくれている?神様や仏様みたいに?今あったばかりのこの変人をどうして俺は信頼したんだ?あまりに荒唐無稽すぎる。このおっさんはただ乗り合わせただけの迷惑な乗客だ。ただ単にこのだらしない身体の中年男が暴れたくなったタイミングと、俺が暴れざるを得なくなったタイミングが被っただけ。
「ええ!暴力です!土佐昭和駅で運転士とか他の乗客に暴力を振るわれたんですぅ~!」
中年男は相変わらずデカい声で通話を続けている。
何を考えてたんだ俺は。敗因はこの変人を信頼してしまったことだ。迷惑客の最大値に漸近するどころかそれを飛び越え、犯罪者になってしまった。
確かに警察が来れば時間は稼げて組織の計画を阻止し、復讐は果たされるかもしれない。でも俺が前科者になったら意味がないじゃないか!復讐と引き換えに未来を失ってしまった!明日のない復讐なんて無意味だというのに!じきに警察が来て、俺は捕まるだろう。何罪だろうか。威力業務妨害?
「ええ。来てください、今すぐに!」
川瀬の腕の力が完全に抜ける。川瀬の足を引っ張っていた力は行き場を失い、川瀬の足を引っ張っていた男たちはしりもちをついた。8月の熱波を吸い込んだコンクリートが頬に触れて熱い。
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