8月28日10時02分:乗客⑤

「おやめください!本当に降りていただきますよ!」

運転士が毅然とした態度で二人の異常者に立ち向かわんとしても、即座に車両の前後から同時に「「うるせえよ!」」という罵声が響くだけで全く相手にされていない。

かわいそうになあ。こんなめんどくせえ奴を二人も相手しないといけないなんて、特別ボーナスでも貰わないと割に合わんよなあ。

自分もまた「こんなめんどくせえ奴」二人によって足止めを食っている被害者であることも忘れ、塩野はことの顛末を外野から眺める一人の観客と化していた。

これも貴重な経験かもしれない。この後会う八木さんとの会話が途切れそうなことがあっても、こいつらの奇行の話をすればかなり間がもつだろう。

あ、じゃあ動画も取っておくか!二人で片耳ずつイヤホンをわけっこして、肩を寄せ合って一緒にこいつらの奇行を見て微笑みあう──想像しただけでキュンキュンしてくるぜ!

早速カメラアプリを開き、待機。

おっさんの右足が持ち上がる瞬間を見計らって…今だ!

ドカン!という音と同時に動画撮影を開始。これで撮影開始の音をかき消せたはず。

カメラを向けているのがバレてからまれても面倒だ。塩野は細心の注意を払ってスマホをそっと傾けた。

おっさん達は尚も叫び、床やドアを蹴り、たまに小競り合いを起こしながら存分に暴れていた。「死ね!」「死ねって言う方が死ねし!」「うるせえ消えろ!」と両者ともに小学生もびっくりの貧弱な罵倒の語彙であるが、それを成人男性が真面目な顔して大声で披露している光景はそれなりに迫力がある。

今にもつかみかからんばかりの勢いで罵り合うおっさんとメガネ男の両者が、なぜか距離を取って、それぞれ電車の前方と後方のドアをふさぐような恰好で暴れているのが少し不思議といえば不思議である。

おかげで二人を同時にカメラに収めることができない。なるべく自然な動作を装ってカメラの焦点ををおっさんからメガネニキに移す。が、その瞬間、興奮してギョロリと見開かれたおっさんの目がこちらを見た気がして、慌てて顔をそむける。

しかしこちらのことは気にも留めず、「大体お前マスク付けろや!お前からウイルスがうつって人が死んだら責任取れんのか?」と訳のわからんいちゃもんをワイシャツ男のほうにぶつけていた。よかった。撮影はバレてないらしい。

……なんて胸を撫でおろしていたら、ぎゃあぎゃあ喚きながらおっさんが振り回す右手がやたらとこちらに向いているように見えて、またもヒヤッとする。盗撮なんてやましいことをしているからだろうか?彼らの些細な動作が気にかかる。

メガネ男がおっさんの右手の指し示す先をちらっと見たりするもんだから、ますます怖い。今一瞬カメラ目線入らなかった?こっち見た?バレてないよね?が、メガネ男の方も何もしてこない。なんなんだよ、さっきからドキドキさせやがって!

「チッ、これで満足かよ!」メガネ男はおっさんの方に向き直ると、おもむろにポケットからしわくちゃのマスクを取り出し、それを装着した。そこは素直に言うこと聞くんかい!男の前髪が長いこともあって、マスクをすると目元を除いた顔のほとんどが隠れるような格好になった。

「ほんとに、頼むからおとなしくしてください……」

なおもやいのやいのと騒ぎ続ける二人を前に、運転士の方が先に音を上げてしまった。運転士がか細く喉奥から絞り出した声は、暴れる二人の罵声にかき消されて誰の耳にも届かなかった。ただ、塩野のスマートフォンのマイクだけが、その小さな叫びを記録していた。

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