8月28日9時56分:逃亡者⑧
やってみて初めて分かる難しさ。
逆上がり、自転車、林檎の皮むき。川瀬の半生を振り返ってみても、見た目には簡単そうに見えてやってみると案外難しいあんなことやこんなことには枚挙にいとまがない。「電車内で暴れ回る」もまた、そうした営みの一つらしい。
「う、うるせえ!」
「ふざけんな!」
「こ、この野郎!」
罵詈雑言の語彙が圧倒的に足りない!これまでの28年間を良識ある社会人として真っ当(真っ当?)に生きてきた川瀬は、電車内での正しい暴れ方のマナーに疎かった。恐る恐る車内前方のドアを蹴ってみても、中年男が奏でるような、胸を震わせる轟音は響かせられない。
電車の動きが完全に止まって、扉が開いた。さあここからが正念場だ!開きかけたドアを蹴り上げるついでに腕時計をちらりと確認。9時56分。〈新薬〉が失効するのが10時40分。この土佐昭和駅から土佐大正駅まで、およそ10分はかかる。つまりは10時30分。10時30分までのあと34分はこの駅で電車を足止めせねばならない。
34分!!稼がなければならない時間の果てしなさに、川瀬の気が遠くなりかける。慌てて近くの座席を蹴り上げ、気を取り直す。なんでかは皆目見当もつかないが、おっさんの協力もあるんだ。ここで俺がへこたれるわけにはいかない。舌を回し続けろ!!罵詈雑言の口を止めるな!
運転席から運転士が降りてきた。30代後半といったところだろうか?鋭い目つきが、川瀬と中年男の奇行を心底軽蔑しているような目つきが怖い!
運転士が何かを言わんと口を開きかけた瞬間、
「どこ見てんだオラァ!」
中年男の腹から今日一番の叫びが響いた。咄嗟に川瀬と運転士の首が音のする方へ回転する。中年男はいつの間にか車内後方に移動していた。前門の川瀬、後門の中年男といった格好になり、逃げ場を失った乗客達がみな一様に不安そうな表情を浮かべている。
振り向いた川瀬の目に飛び込んできたのは、左足の膝を直上に持ち上げる中年男の動作。
それから間を置かずに、バンという乾いた音。中年男が、地団駄を踏むような格好で、左足を床に勢いよく踏み下ろしたのだ。
おっさんはさらに、流れるような所作で右足を後ろに引くと、
ドカン!!
先ほどの地団駄より、数段大きな、堂々たる破裂音が車内に響き渡る。中年男が後方のドアを蹴ったのだ。ほれぼれするような弩級の轟音である。
そうか、
軸足だ。
重心を置いた左足でしっかりと床を掴む意識を持つことで、安定した体勢で確実に重い打撃を入れる、それが、彼の、あの中年男の蹴りなんだ。
まさか──
川瀬は左足にゆっくりと体重を乗せた。
今の中年男の動き──
そのまま右足を地面から離し、振りかぶる。
俺に動き方を教えてくれたというのか!
バシン!!
確かな感触が、川瀬の足に伝わる。
一斉に肩をすくませる乗客の姿が、川瀬の目に入る。
自分がこの電車の支配者になったような、胸がすくような快感が、川瀬の全身を貫いた。
ドガン!!!
川瀬の渾身の蹴りをの余韻をかき消すように、さらなる轟音が電車に響き渡った。
中年男の蹴りが再びさく裂したのだ。
いったい何者なんだあんたは。これだけ電車内での暴れ方に精通しているなんて、ただ者ではないはず。
中年男のその巨体には小さすぎるTシャツ。背中には大きな楕円の汗染みができていた。川瀬には、その汗染みが輝いて見えるのだった。
タイムリミットの10時30分まで、あと30分。
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