8月28日9時55分:逃亡者⑦
川瀬の脳は、隣に座る謎の中年男の奇行を未だ処理できずにいた。なんなんだこの人は?中年男の暴れっぷりは見る間にエスカレートし、平時の川瀬なら身の危険を感じて逃げていたであろう段階へと至った。床が蹴られるたび、大きな破裂音が体内に響く。
俺の意図を汲んで俺の代わりに暴れてくれているのか?いやいや、どうやって俺の考えてることが分かるんだよ?じゃあマジでたまたま居合わせただけの「もともと暴れたかったおじさん」なのか?そうするとさっきの意味深な微笑みは何なんだよ!
だめだ、考えてもこの変な奴の行動に合理的解釈を与えられる気がしない。
疲労と緊張デバフによって普段の7割くらいしか活動していない川瀬の脳は、やがて考えることを放棄した。
『他のお客様のご迷惑となる行為はおやめください』
見かねた運転士がアナウンスをかける。ワンマン運転の過疎路線に車掌なんてものはいないので、予土線各駅停車窪川行きにおける列車内トラブルの対応はこれが限界である。
「うるせえ!邪魔すんじゃねえ!」
『お静かにしていただけないなら次の駅で降りていただきますよ!』
「あア?ふざけんな!俺は客だ!」
叫びながら、中年男が床を蹴りつける。ひときわ大きな破裂音が車内に響いた。
車内の乗客はみな一様にうんざりしたような顔をしている。
これは。ほんとにあるんじゃないか?このまま駅でもこの男がごね続けて列車の発進が遅れれば、〈新薬〉が効果を失うまでの時間を稼げるかもしれない。苛々とした感情を隠しきれていない顔が並ぶ車内で、川瀬の表情だけが仄かに明るくなる。
本当に、果たされるかもしれない。俺の復讐が。彼らの「計画」を止め、組織の連中をぎゃふんと言わせて、晴れやかな気分で新たな人生を送れる、そんな未来が、一度はあきらめ、分厚い雲に覆われて見えなくなりかけた希望の光が、再び顔を出した!この、見知らぬ不潔な異常中年男性のおかげで!
ありがとう!謎の中年男性!彼は今、乗客全員のヘイトを一身に受け、組織のテロ行為を阻止すべく体を張っている。彼に命を救われるかもしれないというのに、乗客達はみな彼に怨嗟のまなざしを向けている。
しかし、川瀬にだけは、中年男のだらしない体のフォルムが輝いて見えた。中年男へ向けられた怒りは、本来川瀬が受けるはずのものだったのだろう。中年男から1ミリも感じられない大人としての尊厳は、本来川瀬がこれから失うはずだったものだ。見知らぬ中年男のおかげで、川瀬の前には無傷のままその悲願を達成できる可能性が現れていた。
だが。
それでいいのか?復讐を果たすことで生じる損失をすべてこの謎のおっさんに背負わせ、自分はその利益にただ乗りするのか?恥ずかしくて、人としての尊厳を失うことが怖くて、自分が二の足を踏んでいたことを、おっさんはなぜか代わりにやってくれた。そんな意味不明な状況に甘えて、おっさんが肩代わりしてくれた痛みから逃げて、旨味だけを享受するのか?
それは、同じなんじゃないか?あの、俺に何も与えないまま、俺からあらゆるものを奪わんとするあの、忌々しいあの組織と同じことを、今自分はしようとしているのではないか?
奇行に走らんとする衝動にブレーキをかけていた川瀬の理性は、眼前の男の奇行の処理によって既に焼き切れていた。
やらなければ。なぜかそう思ってしまった。考えるやいなや、川瀬は椅子から毅然と立ち上がった。
「うるせえよ!!」
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